2017年09月22日

母音話


音を明るく感じるのは、感じる母音としては平仮名の「あ」になると思う。

しかし自分の手元(口元?顔元)で「あ」を感じるだけだと、ただ広がったそば鳴りの音として終わる、または力んだ音、低い倍音の少ない賑やかな音になる可能性もある。


遠くを意識して、息そのものを遠くへと筒のように吹いた場合、感じる母音としては「お」になるのだと思う。

これは必要なシラブルだが、こちらにシフトしすぎると、暗く美しさの要素が少ない音になる可能性もある。


要するに「あ」も「お」も必要だと思うのだが、じゃあ間か?と「う」を感じるのは違う気がします。

「う」になると、詰まった力みの種になる。


口の中は実際には「お」で、音色に「あ」を盛り込むという感じか。

でも「おー」と言いながらアンブシュアを作ると、筋肉としては変な向きになるので、「お」だけとは言いにくい。


厳密に言えば、音域や音量、ニュアンスによって変化するし、そもそも「あいうえお」全て混ざっているのかもしれない。


N響定期

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2017年09月21日

本当に価値ある演奏


とにかく演奏を整えたがる自分がいる。整った演奏からは曲本来の姿が見えやすいし、その方が聞き手も感動するだろうと思ってしまうから。

年々その思考が強くなっているのは、N響の演奏自体もともと整然としているのに、昨今はより整っているからであり、その方が「うまい」となるし、解像度高く快感も多いから。

最近の指揮者も、整えることに重心がある人は多い。最初整えて、それから歌うみたいな。

ただ冷静に感じたいのは、「整っている」というのは魅力のひとつの側面であり、整えたあかつきに、もし自由さに限界がくるのだとしたら、明らかに


「整えることではない何か」


が必要だとなる。


それを探し求めながら、やはり日々整えるのだと思う。「雑然としている」という評価になったのでは、今の時代通用しないのだから。

『冷静と情熱のあいだ』は映画にもなった小説のタイトルだが、演奏の現場には必要なものとして渦巻く感性だ。

聞き手の感動、喜びに貢献できる演奏とは、整然と何のあいだなのだろうか?


N響定期練習、川越へ

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2017年09月20日

完成図のクオリティ


ただやみくもにさらっても良い演奏にはならない。これはきっと誰もが理解している。

ここでいうやみくもとは「さらっていくうちにいい演奏になるだろう」というメンタルが存在し、それを持続させているということ。


素晴らしい演奏に必要なのは「素晴らしい完成図」であり、それが常に自分の頭の中に存在し続けることだ。

この完成図は、さらっていくうちに更にクオリティ高くなるのはよろし。ただ、最初からかなりのものが存在しているべきであり、さらっていくうちにわき出てくると考えるのは、残念ながら現実的ではない。

そもそも完成図が無くてもまめにさらえる人はいて、なぜかというと吹く行為がとにかく楽しいから。

まあそれ自体を否定的には言えないが、ただ「いい演奏にはならないけどいい?」と聞かれることにはなる。


極端なエピソードをひとつ。これは、リングよりもエクソシストよりも恐ろしいホラー。

ある人の演奏を20年ぶりに聞いた人の話。

その人は勤勉とも言える取り組みで、ウォームアップの時間にスケール全調と三度のインターバルを全調、20年前と変わらずやっていたそう。そして20年前と変わらず、同じようにとても音程が悪かったというのだ。

僕は聞いた途端、背筋がゾワゾワッとしました。

「やりゃいいっちゅうもんじゃない」という真理の声が聞こえてくる。

本来音程が良くなるために取り組むような内容。それが数十年真面目に取り組んでも、なにも変わらず酷いと。周りも何も言わないんですね。ある意味冷たい。

この話を聞いたあるプレイヤーが「何も考えてないんじゃない」と言った。

そう、考えてないのだと思うが、考えてないことで存在していないのが「良い音程で吹く自分」という完成図だと思うのです。

音程やリズムの話になると「正確な音程、正確なリズムをまず知っていないと実現しようがない」ということがよく言われるが、演奏全てにおいて、この


「完成図という理想、そのクオリティ」


こそが、演奏のクオリティを決め、評価を決める。


完成図のクオリティが高く、感動を呼ぶようなものに憧れているような人なら、経験期間が短くても実現するだろうし、低ければ20年真面目に積み重ねても人からは歓迎されないものしかできないとなるのである。


そういう意味で、真似たい演奏があるというのは悪い話ではない。少なくとも、クオリティが高いであろう完成図がそこには存在するのだから。


N響定期練習、ジパング

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2017年09月19日

サン・テグジュペリの言葉


アントワーヌ・マリー・ジャン=バティスト・ロジェ・ド・サン=テグジュペリ(1900年-1944年)は、フランスの作家、操縦士。郵便輸送のためのパイロットとして、欧州-南米間の飛行航路開拓などにも携わった。

彼が残した言葉は素敵なものが多いが、中でも特に心に響くものがありました。




人間は充実を求めているのであって、幸福を求めているのではない



地球は先祖から受け継いでいるのではない、子どもたちから借りたものだ



自分の内側を見てみても、ぼくは自分以外のものと出会ったことがない



本当の贅沢というものは、たったひとつしかない。それは人間関係に恵まれることだ



砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからなんだよ




う〜ん、素敵だ。


N響定期練習

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2017年09月18日

価値ある演奏の真実を知りたい


どんなに上手い演奏をしても、聞き手の心が心底喜ばなければ、さほどの意味もないですね。

聞き手が心揺さぶられる演奏というのは、必ずしも整ったものとは限らない。


私たちは整えるというトレーニングをし、整えるという仕上げ方をするが、人前で放つ時には、それじゃないものをやろうとしなければならない。

「整えた」の上に上乗せというか、全く違うラインにあるやり口というか。


ずれても、はずれても、合わなくても

そんなほころびを軽く超える何か。


それは何だ?


ブロカート本番

posted by take at 16:51| 活動報告