2018年08月24日

もの凄いハーモニー


どんな話からそうなったのかは忘れたが

「だからトロンボーンのハーモニーって美しいんだね」

とのコメントが心に残っている。

当事者たちが「いいいい好き好き」言うのもわかるが、他の楽器の人から(たしか弦楽器奏者)言われると、余計嬉しく誇らしくなる。


純度と透明度の高い我が楽器の和音。自在な音程感からの多彩な色合い含め、響きの美しさ、安心感は格別である……


と思うと、やはり積年の疑問と憧れに思いが馳せる。

「何故、スライドを持ったトロンボーンの形状は、中低音域にのみ存在するのか?」

更に低い方、コントラバストロの音域を超えてチューバの大きさ、太さまでいくとスライドに無理があるのはわかる。

スライドトランペットはあるが、もう少し洗練させたとして、トランペットではなくこの形状での高音域での和音を聞いてみたいのです。

名手たちによる演奏なら、驚くほど美しいんじゃないだろうか。


そして、バイオリンからコントラバスまでのような、その音域からコントラバストロの音域までをカバーした


「トロンボーン属での完璧なるハーモニー」


に対する憧れが拭えない。

実は、失神しそうなくらい素晴らしいんじゃないだろうか。


N響大津公演

posted by take at 11:15| 活動報告

2018年08月23日

中庸


次期首席指揮者として初めてのコンサートのゲネプロを終えたペトレンコが、ベルリンフィル首席チェリストからのインタビューを受けている。


「最近アリストテレスの『ニコマクス倫理学』というのを読んだのですが、そこには【中庸こそが全ての徳において最高である】と書いています」

「私はあらゆるレベルにおいて『中心点』を探そうとしています。速すぎても遅すぎてもだめで、うるさすぎても聞こえなくてもだめ。もちろんピアニシモがだめなわけではない。それは当然表現として使うべきです。しかし全ては真ん中を通っていくべきなのです」

リハーサルでは感情を爆発させないようにバランスをとっていると。

同時に楽員は「私達は感情表現をする勇気を持った人を選んだ」と言っている。

エモーショナルな密度の濃さという結果を望みながら、それを最高の形で実現できる才能を望むオケマンたち。それを体現できるのは、バランスの重要性を熟知し、中庸でいる時間こそを大事に感じている人物でなくてはならない、ということのようだ。


『中庸がもたらす徳』というのは音楽的な話だけでなく、普遍的なあらゆるイメージへと、価値観を探す旅へと誘ってくれる。


攻めると引く

冷静と興奮

まじめとユーモア

スタンダードと唯一無二

SとM

自分が話したいと相手が話したい

ストイックと快楽への開放

許すと許さない

積み重ねと瞬間的刺激

今でしょと先でしょ

諦めないと方向転換

うどんとそば?


N響三重公演

posted by take at 10:20| 活動報告

2018年08月22日

後押し


僕は


「後押しには悪い後押しと良い後押しがある」


と思っています。

後押しというのは、特に管楽器の演奏者が陥りやすいダークサイドとして有名な奏法。

本人は歌ったり感情を込めたりしているつもりだが、音がはじまった後、クレッシェンドではないキャラクターで息で押しつけることにより、違和感のある表現になること。

金管では特に御法度感が強い。

実は弦楽器なんかは結構表現として使うし、木管もオーボエなんかは、狙っていわゆる後押しのような立ち上がりで吹く演奏家も多い。

問題は違和感に感じるかどうかと、押した息がどのように流れているかだ。


たとえばまるで押さなかったら、真っ直ぐないしは抜いているということになる。

音楽的な音の聞こえてき方というのは、これだけで全てが表現できるわけではないし、唇の振動のスキルによっては、このふたつの吹き方では否音楽的となってしまうこともある。

息が送り続けられるというのがとても大事なのだが、唇が感じる抵抗からの力みが排除されており、スムーズに、そして向かっているキャラクターに聞こえるためには、キープや抜くではたどり着けない奏法が必要だったりする。

つまり、音量に現れないような息のクレッシェンドが作り上げる音楽的があるということ。

これこそが「良い後押し」なのだと思うのです。

ワードとして、悪者感レッテルばっちりなのですが、じゃあ正義は?と見つめていった先に、その高品質ヒーローが隠れていたりする。


そいつは、最高に音楽的で、彼こそが感動を呼び込むチョーかっこいいやつだったりするのだ。


N響練習

posted by take at 10:50| 活動報告

2018年08月21日

原点回帰な出逢い


僕が初めて自分のバックを手にしたのは高校三年の冬。高松のヤマハに入れてもらった赤ベルライトウェイトスライドの42GLT。1983年の暮れだった。

昨日、とある中古を扱う業者から「1984年の42GLTを吹いて感想を聞かせて欲しい」という依頼が。


今朝その楽器を吹いてみました。

34年物という金管としてはかなりのベテランになりますが、これがことのほかとても良いトロンボーンだったのです。

へたった様子はまるでなく、しかもとてもスムーズに息が入り、音域ムラや音程ムラもない。「いいじゃないですか、これ!」となり、なんと自分で購入。逆にセカンド楽器として持っていた、42Bを下取ってもらいました。

業者は僕の感想を付けて販売の予定だったのですが、コメントは

「とてもいい!僕が買います!!」

だった。


実は、決断理由は楽器の状態が良かったからだけではありません。

自分が受験生の時に初めて手にしたバック。それと同時期の同じモデルに今になって巡りあったというのは、僕の演奏家人生そのものをなぞることができるような逸品なんじゃないかと思ったのです。


あのとき吹き始めたバック42GLTは結局大学四年間吹き、欲しいという先輩に譲りました。それと同じ時間生きてきた楽器と、今吹いているハグマンとを並べてみます。

続けて吹いてみると、僕の演奏家としての時間を旅しながら、あの頃と今大事にしていることが少しだけ見えてくる気がします。


そしてちょっとは上達しているんじゃないかという今の自分が、42GLTで現在の演奏をすることで、頑張ってきたんだなあという実感もちょびっとだけ持てたのでした。


休日

posted by take at 17:22| 活動報告

2018年08月20日

そとみなかみ


N響の仲間に、ある「間違われエピソード」を話しました。

かつてホールの楽屋口で、サイン待ちをしていた方に別の演奏家と間違われたのです。

「いえ、違います」とはっきり否定したのに「え?!〇〇さんですよね?」と念押しされたので、そんなに似てるかー?と思ったのですが、今回話した彼も「えー?似てるかあ?」と。

ですよねー。というかその後の彼の発言が、なんだか印象に残って……


「中身が全然違うよね」


実は相手や僕がどうこうよりも、この「中身が違う」という見方がとても印象に残りました。


普通なら「性格が」とか「人間性が」とかになるのでしょうが、中身がというと外身があるということになる。

外見といっている入れ物が外身だとして、中に入っている中身が本物の人間みたいにもとれます。


まあ表情とか立ち居振舞いでも人間性をはかることはありますが、基本入れ物である外身と中身は全く別物だとしたならば

外見だけではまるでわからない

となる。

確かに、自分以外の人が本当に、本当に!何を考えているかはわからないもの。

逆に言えば、自分の中身しかそれがわからないわけで、普段は入れ物というカモフラージュで隠しているとも言える。

それでも、結果周りからかなり正確に判断されてしまうわけで、それというのは

「発言と選択」

を評価されてのもの。


結局中身は頑張るしかないのだ。


休日

posted by take at 16:46| 活動報告