2017年07月30日

三つの目的


楽器を吹く、演奏する目的は「自己表現だ」と言うと、様になるし真理に感じる。

でもこれは三つのうちのひとつだと思う。


しかも、人によっては「自己」とは表現しにくかったりするかもしれない。「いや、そんなに自分こそを表現している感じじゃないです」なんて人もいるだろう。


三人の画家に「あなたにとって、絵を描くとはどういうことですか」という質問を投げたそうです。

1人は「自己表現です」と、最もわかりやすく。

もう1人は「呪いです」。 の、呪い…。描く運命になり、良きも悪きも追い込まれ、運命にさいなまれているのか。

残りの1人は写実の巨匠で「特にないんです」と。小さい頃から図鑑などの写真をそっくりに描くのが好きだった、自分が描きたいものが自分の中からわくというより、ということでないのだそう。

ただ全ての人に「自己」という言葉がそれこそ様になるかどうかは置いておいて、「表現している」ことは確かです。

つまり「表現する」という欲を満たすために、その表現に対する賛同をアイデンティティーの力にしたいために、楽器を吹いているのでしょう。


もうひとつは、トレーニングだと思います。

これはM的本能で、自分を痛めつけ鍛えて成果を上げることを喜びとするというもの。単純に努力が快感で、更に変化や成長を楽しみ、そしてそんな自分の上昇する矢印をアイデンティティー確立のエネルギーとする。


三つ目は、シンプルに「遊び」として。

単純に楽器を吹く行為は楽しく、人と一緒に吹いたら楽しく、名曲なんか演奏したら楽しく。つまり遊んでいる。


全ての仕事や趣味にも通ずるのでしょうが、この三つのためではないでしょうか。

これらがいい感じでバランス良く、活力と共にアクティブになされていれば、楽器を吹くということが充実しているとなる。

やらなければならないことではない。しかもどれかだけピックアップし「自己表現しなければならない」「トレーニングしなければならない」「遊ばなければならない」と考えることでもない。

大いに表現し、大いにトレーニングし、大いに遊び。できる限りバランスよくやりきれるといいですね。


僕はプロの演奏家なので「何かっこつけてんだ」と言われるかもしれませんが、楽器はお金のために吹いているのではありません、どう考えてもそうなのです。

仕事なのに遊んでもいるわけで、これまたけしからんと怒られそうですが、しかしこれが僕の選んだ人生の時間のテイストです。

呪われてるのだとしたら、克服できた気がしないくらいエンドレスな奥行きで、やめられないくらい気持ちよくて、どうしてもやってみたい過去の名曲たち、その作曲者の怨念にやられているのでしょう。


N響ほっとコンサート

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2017年07月29日

あなたにとって楽器を吹くこととは何ですか


楽器を吹くこととは何か。それは


自己表現であり

トレーニングであり

遊びである。


N響川崎公演

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2017年07月28日

ドリンクエボリューション


ウガンダ・トラさんなんですよね

「カレーは飲み物」

って言った人。その後まいう〜石ちゃんが連発して広まりましたが、ビッグバン(?)はウガンダショック。「カレーライスは6杯を3分で食べる」「一杯を5秒で食べたことがある」と自慢していたそう。


時代は流れこの迷言は店の名前になり、CoCo壱もビックリな知名度で、サラリーマンの会話のネタとして広く知れ渡ることとなりました。

ウガンダさんは、「それくらいカレーは好きだ、うまいと思わないかい?」「俺はただの巨漢じゃないぜ、みんなもびっくりな早食い、大食いマスターなのさ」と言いたかったのだと思います。

「飲んでしまうくらい美味しい」が、巨漢の免罪符テイ…言い訳テイストとして人々の心に笑いを届けているが、店の名前にして出店された時は、さすがに時代の価値観への懐、勢いとユーモア、そして男のロマンを感じ、少なからず驚きと嬉しさに包まれたものだった。


更に時は流れ、池袋には「カレーは飲み物」に次ぐ新しい飲料店が。その名も


『とんかつは飲み物』


な、なに〜〜っ!!

カレー店が同じ系列として出したらしい。神をも恐れぬやってしも〜たなのか、時代の先駆的偉業となるのか。

カレーはまだルゥがトロトロなので飲むのは可能だが、とんかつは飲めんやろ。

ある人が「そもそもとんかつは飲み物なのでしょうか?」と具問を店に投げたところ、

「とんかつに限らずおいしい食べ物は既に飲み物だと思います。これはもう概念です」

との返答が。

概念だったんですね。ウガンダさんのアイデンティティーアピールは、時代を超えて、崇高な概念として多くの人の居酒屋トークのネタになっていってる。

ちなみに、桑田晃がよく「吉川さんはうどんを飲んでいる、噛んでいない」と言うが(……噛んでますよ)、概念としては僕にとってうどんは飲み物なのだろう。

とすると、讃岐のセルフのうどん屋は、ドリンクスタンドということになる。


うどんやラーメンはまだ飲み物イメージになりうるが、いきなりとんかつまで行ったので、概念の進化は人類の意識を遥かに超えたスピードで進んでいる。

次は「焼肉は飲み物」「ジンギスカンは飲み物」だろうか。はたまた「寿司は飲み物」「餃子は飲み物」か。


今の僕は「サムギョプサルは飲み物」そして「チャミスルは食べ物」なのである………ん?!


川越へ

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2017年07月27日

演奏が存在する場所 その2


「音程はトロンボーンの中にあるんじゃない!自分の中にあるんだ!!」

と、青島刑事は叫んでましたが、リズムがトロンボーンの中にあるイメージはないにせよ、音色や音程はあると考えやすいですよね。

実際「この楽器は音がいい」「この楽器は音程が悪い」なんてことはメジャーな日常会話。

もちろん、この発言が間違っているとは欠片も思いません。ただ、そこを肥大して価値観の中心に据えると、自分とトロンボーンがどんどん分離していくと考えはじめています。

これら楽器に対するアプローチだけでなく、そもそもメジャーな基礎トレーニング法やエチュード、レッスンで細かく言われること、スライディングやアンブシュアのピックアップも含め、克服法なるものも、語れば語るほど、

「トロンボーンと自分は結局別のものである」

ということを膨らませているように感じます。


そうは言っても、ピアノもバイオリンもそういうことしか、一般的に設定することはできない。だからおかしいとかそういうことではなく。


ピアノやバイオリンは世界中で凄い数の人々が取り組んでいるのでしょう。エチュードをさらいレッスンを受け、曲をさらい発表し。

ただ、中には数は少ないが神童と呼ばれる人たちがいる。まだ小さいのに信じられないような演奏、表現をする。若くても、上手くて上手くて、世界トップオーケストラのコンチェルトのソリストに呼ばれる人もいる。


その他大多数の人とは、一体何が違うのか。才能の正体とは一体何か。


それが、楽器との関係性ではないかと思うのです。

大多数の人は、楽器とがっつり向き合い、克服しようと格闘する。

神童や天才にとっては、まず自分の中に演奏の全てが感情と共に消化されて存在しており、僕らが楽器と呼んでいるものはただのメガホン。相対して格闘するものではなく、表現しやすいように扱うもの。

自分の中で表現は定まっているので、それが出てくるように扱えば、自動的に私たちが理想の奏法なんて言ってるものになってしまう。

自分が100で道具は0。

音楽が存在しているのは、100%自分の中で、メガホンの方は0。拡声器なだけ。

あの、でかくて、指先しか密着しないピアノですらそうじゃないだろうか。


N響ほっとコンサート練習、川越へ

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2017年07月26日

演奏が存在する場所


赤ちゃんは、わきあがるその豊かな感情を、相手に正確に伝えるツールでもって表現することができない。

言葉を持ってないから。

だから泣くしかなかったりするのだが、残るかどうかはわからないが、その瞬間はかなりストレスを感じているのではないだろうか。

僕らだって、今この頭で読み書き喋りが全くできないとなると、わめくしかないし、ストレスなんてもんじゃなく大変な辛さだろう。


赤ちゃんより、更に感情が多様に種類を持った私たち大人。そこまでの過程においても、小学校くらいまでの日本語のトレーニングにより、この素晴らしいスピーキングツールを手にする(口にする)。よって、話して伝えることでかなりストレスを発散することに成功するようになってますね。(同時に「聞く」ことも多様になるので、受けとることによるストレスはたまったりするが)


この「日本語が話せるようになるトレーニング」というのは、日本国数千年の歴史でもって超研究されまくり、極めて洗練された内容になっているのだろう。ありがたや。

その素晴らしい教育の甲斐あって、自分と日本語というのが分離しているイメージは一切無い。感情と言葉、その表現は一切の隙間なく一体化している。他人においても、大人の日本人と相対した時はほぼそう感じる。

外国語になるといきなり分離。感情が簡略化されて発せられたり、場合によっては違う内容になってしまったり。伝えるだけの技術が低いので、残念ながら一体感が薄い。もちろん僕の話です。


実は楽器の演奏も、自分と我が日本語のように、まるで分離することなく一体化していると良いと思うのだが、僕は今までそうなるために

楽器とどう向き合うか

とか

楽器とフィフティーフィフティーになれるために

なんて考えていたが、その考えは大きく変わってきた。


音楽と演奏、わが感情と表現は、全て自分の中にのみあるべきで、トロンボーンと言われているものはただのメガホンであると。


つまり、自分の中に全て存在するくらい自分自身が100でありトロンボーンは0に近い存在であるべきじゃないかと考えるようになってきた。

相手が話しているのを聞いた時は、その人の感情、意見しかその存在を感じない。日本語の存在は感じないのだから。


ということは、日本語が喋られるようになる教育法のようなトレーニングが必要だということになる。

ヒヤリング、文法、語彙、実践、評価……


音程も音色もリズムも、音楽も演奏も感情も表現も、トロンボーンの中には一切無い。全て自分の中にしか存在しない………

どうすれば、そうなれるのか。


川越へ

posted by take at 15:24| 活動報告