2019年06月09日

女性と駄洒落


「それおやじギャグですよ」と言われれば、おやじと認定されたのだ。

若者が同様のだじゃれを言ってもおやじギャグと言われないことの不条理研究から、この価値観にたどり着き、早十数度もの春を越えてきた。


先日、旦那の口元関所崩壊からのおやじギャグ連鎖に

「家でもずっとこうなんです」

お子さんたちの反応は

「完全無視、無反応です」

奥さんは笑ってあげてください

「え〜〜〜〜〜?」

という会話の後、ふと


そういえば、女の人って駄洒落やギャグを口にしないなあと、素朴過ぎる疑問がわき、リサーチをはじめた。

女たるもの、絶対駄洒落なんか言わん!というプライドなのか、そもそも駄洒落やギャグは思い浮かばない脳なのか。

男性陣の中では、駄洒落の概念がそもそもないのではとなった。


「浮かびますよ、私結構家では言ってます」

「私も。旦那にお前寒いって言われてます」

でも外では言わないよね?

「外で言うほどじゃないから」

まだよくわからない……


別のコミュニティで聞く。

「女性は話したいことがたくさんあるから、駄洒落なんか言ってる場合じゃない」

「頭には浮かぶけど、外には出さない。内容ないから。話すほどのものじゃない」

女子トークにも内容ないじゃん

全員「あります!!」

は、はい(^。^;)、ありますよね。ただ、男が駄洒落言うのはサービス精神なんですよ。周りに楽しんで貰おうっていう。

「でも、注目してもらいたいんですよね。面白いでしょって。その瞬間、皆でそれを聞くっていうために止まるじゃないですか。女の人は止まりたくないから、ずっと話したいから、意味のない駄洒落は浮かんでも言わないんです……」


な、流れが大事なんですね、わかりましたか、武典さん、わかりません。


レッスン、N響定期、ブロカート

posted by take at 15:45| 活動報告

2019年06月08日

親知らなさ過ぎ


楽聖たちは笑うだろうが、私たちの世代は若い頃『新人類』と言われていた。そういうタイトルのゲームをせっせとやっていたのを思い出す。


「先生が新人類なら、私たちは超未来人ですね」


楽聖たちの戯言が聞こえてきそうだ。

あの頃の年長者からしたら我々の言動が新し過ぎて、意味不明で、呆れ返ったのだろう。そんな世代が50歳を過ぎ「若いやつらが……」と酒を酌み交わす。

しかし「新人類」という言葉では表現しない。あとにも先にも、あの頃の我々だけに貼られたレッテル。よっぽど、それまでの日本人の流れと違う、外来語ならぬ宇宙来語を発し、先輩たちが口あんぐりになるような態度をとったのだろう。


そんな昨今、びっくらこく話を聞いた。

とあるアマチュアホルン奏者(40辺り男性)が、親知らずを6本抜いたというのだ。


ろ、6本!!!???


どういうこと?


どうやら、尾てい骨の退化により尻尾との縁が無くなったのと同様に、昔は6本あったのが4本になったという説があり、しかし中には6本生える人もいると。通常の奥歯四ヶ所の他、犬歯の裏辺りに二本生えるらしい。


我々新人類より一回りも若い旧人類がいたということだ。


ちなみに彼は、まだ40辺りなのに老化を語ったので「語るには早い!老化はそんな甘いもんじゃない!!」と僕が言った人。


若いのか若くないのか、ワケワカメ。


N響定期

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2019年06月07日

状況の価値


人生はそれなりに長く、年齢によりいろんなテイストを生きることになる。

状況がずっと変わらないということはあまりなく、ときが経てば、ダイナミックに変わっていることもある。


世代によって素晴らしさの価値が違うなんてのは無いはずだが……


でも、若いとき、中堅のときに何があってどうだったということよりも、結局人生の後半の後半辺りで状況がどうなっているのかの方が大事なのではないかと、思うようになってきました。

若いときに、成功したり成果をあげ評価されたりで、幸せなときを過ごすというのはもちろん良いことだが、それ以上に年齢を重ね重ねて向かえた後半の後半の状況が、豊かで穏やかな良い価値観に包まれていることこそが、人生において最も必要なことではないかと思うのです。


N響定期練習

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2019年06月06日

勇気発動ベストタイミング


とても反省している。というより、駄目な自分が情けない。

夕方混み混みの上野東京ラインで大宮方面へ。新橋から乗った僕は座れたが、上野からとても多くの人が乗ってきた。

上野の次、尾久を発車してしばらく経って、ふと凝視していたタブレットから目線を上げると、僕のすぐ目の前にかなり御高齢のお婆ちゃんが劇混みの中立っているではないか。


どう考えても、席を譲り代わってあげるべきだ。目の前だし、代わるなら僕しかいない。


しかしなぜだか直ぐに行動に移せなかったのだ。凄く気になりながら、赤羽で人が降りたら一緒に降り隣の車両でもいこうかと、席を立つのを先送りにしてしまった。

結果赤羽ではあまり人は降りず。もう我慢できなくなった僕は降りるふりのように席を立ち、お婆ちゃんが座るのを確認してその前に立った。動くにも動けないほど混んでいるし。お婆ちゃんは「あら!」という顔をしたが、僕は「どうぞ」と。


結局譲るのなら、なぜ気づいた瞬間に立てなかったのか。本当に情けない。


まず、気づけてなかった自分が恥ずかしかった。そして、お婆ちゃんが「譲ってくれないなあ」と思ってるのでは?と思った瞬間、なぜだかしり込みしてしまった。周りも「この人代わってあげないんだ」と思ってるのではとも。


よくわからないようなメンタルだが、いずれにせよあんな御高齢の方を結果赤羽まで立たせてしまったのは、本当に馬鹿としか言いようがない。


とにかく勇気がでなかったのだ。いい年して。


ああ、席を代わろうと思った瞬間が、唯一の勇気の発動どきなのだと強く感じた。そのタイミングを逃してしまうと、あとはどんどん出しにくくなる。

勇気というのは、大きいのも小さいのも含め一日のうちに何度かは発動しなければならないタイミングがある。どんな場合でも、やろうと思った瞬間こそを逃してはならないのだろう。


楽聖が「譲ったとき、次降りますからって言われ微妙な空気になったり、譲った方がいい人なのかの見極めが……」と、あるある話をした。

そう、悩んだりもするし、不本意な感じになることもあるだろう。

それでも、自分の中に思いが生まれた瞬間が、唯一の勇気発動のタイミング。結果がどうなったとしても、決して逃すべきではない。


それを実践できている人の周りには、とても良い空気が流れ、その力が人間としての好評価を呼び寄せるのだと思う。


N響定期練習、川越へ

posted by take at 19:32| 活動報告

2019年06月05日

感動しやすい状況


写真教室の講師の言葉が興味深い。


被写体にピントが合っていて周りがぼやけてる写真。よくあるものだが、このアイテムの効果はふたつあると。


ひとつめは、撮った人間が本当に見てほしい部分がずれないこと。

現実の視界のように全てが同様にクリアーな場合、人によって見たいところが様々だったりする。それを、撮った人の意図通り正確に伝えることができる効果。


もうひとつは

「実際はそんな風に見えないですよね。もし見えてるなら、病院に行った方がいい。
東京に住んでる人が、たまに沖縄の空を見たらその美しさに感動しますね(します)。しかし沖縄の人は空を見て、ああ今日は洗濯日和だなあとしか感じない。つまり人は日常的じゃないものの方が感動しやすいのです」


現実の見え方と違うものの方が、感動に繋がるからと。

実は絵画の世界も同じだし、それが写実絵画でもいえている。

一番伝えたい被写体以外をどう描くかで、印象が違ったりする。

画の全てが細やかにリアルに描かれていて、どうも心に響かなかったこともある。


非日常が感動に繋がるというのは、私たち音楽の世界も同じ。

自分の音、演奏からも自らが感動を望むなら、新鮮さを求め工夫されたトレーニングをしなければならないのだろう。

それがたとえルーティンであっても、非日常のテイストになるように。


N響定期練習、川越へ

posted by take at 15:18| 活動報告