2018年08月22日

後押し


僕は


「後押しには悪い後押しと良い後押しがある」


と思っています。

後押しというのは、特に管楽器の演奏者が陥りやすいダークサイドとして有名な奏法。

本人は歌ったり感情を込めたりしているつもりだが、音がはじまった後、クレッシェンドではないキャラクターで息で押しつけることにより、違和感のある表現になること。

金管では特に御法度感が強い。

実は弦楽器なんかは結構表現として使うし、木管もオーボエなんかは、狙っていわゆる後押しのような立ち上がりで吹く演奏家も多い。

問題は違和感に感じるかどうかと、押した息がどのように流れているかだ。


たとえばまるで押さなかったら、真っ直ぐないしは抜いているということになる。

音楽的な音の聞こえてき方というのは、これだけで全てが表現できるわけではないし、唇の振動のスキルによっては、このふたつの吹き方では否音楽的となってしまうこともある。

息が送り続けられるというのがとても大事なのだが、唇が感じる抵抗からの力みが排除されており、スムーズに、そして向かっているキャラクターに聞こえるためには、キープや抜くではたどり着けない奏法が必要だったりする。

つまり、音量に現れないような息のクレッシェンドが作り上げる音楽的があるということ。

これこそが「良い後押し」なのだと思うのです。

ワードとして、悪者感レッテルばっちりなのですが、じゃあ正義は?と見つめていった先に、その高品質ヒーローが隠れていたりする。


そいつは、最高に音楽的で、彼こそが感動を呼び込むチョーかっこいいやつだったりするのだ。


N響練習

posted by take at 10:50| 活動報告

2018年08月21日

原点回帰な出逢い


僕が初めて自分のバックを手にしたのは高校三年の冬。高松のヤマハに入れてもらった赤ベルライトウェイトスライドの42GLT。1983年の暮れだった。

昨日、とある中古を扱う業者から「1984年の42GLTを吹いて感想を聞かせて欲しい」という依頼が。


今朝その楽器を吹いてみました。

34年物という金管としてはかなりのベテランになりますが、これがことのほかとても良いトロンボーンだったのです。

へたった様子はまるでなく、しかもとてもスムーズに息が入り、音域ムラや音程ムラもない。「いいじゃないですか、これ!」となり、なんと自分で購入。逆にセカンド楽器として持っていた、42Bを下取ってもらいました。

業者は僕の感想を付けて販売の予定だったのですが、コメントは

「とてもいい!僕が買います!!」

だった。


実は、決断理由は楽器の状態が良かったからだけではありません。

自分が受験生の時に初めて手にしたバック。それと同時期の同じモデルに今になって巡りあったというのは、僕の演奏家人生そのものをなぞることができるような逸品なんじゃないかと思ったのです。


あのとき吹き始めたバック42GLTは結局大学四年間吹き、欲しいという先輩に譲りました。それと同じ時間生きてきた楽器と、今吹いているハグマンとを並べてみます。

続けて吹いてみると、僕の演奏家としての時間を旅しながら、あの頃と今大事にしていることが少しだけ見えてくる気がします。


そしてちょっとは上達しているんじゃないかという今の自分が、42GLTで現在の演奏をすることで、頑張ってきたんだなあという実感もちょびっとだけ持てたのでした。


休日

posted by take at 17:22| 活動報告

2018年08月20日

そとみなかみ


N響の仲間に、ある「間違われエピソード」を話しました。

かつてホールの楽屋口で、サイン待ちをしていた方に別の演奏家と間違われたのです。

「いえ、違います」とはっきり否定したのに「え?!〇〇さんですよね?」と念押しされたので、そんなに似てるかー?と思ったのですが、今回話した彼も「えー?似てるかあ?」と。

ですよねー。というかその後の彼の発言が、なんだか印象に残って……


「中身が全然違うよね」


実は相手や僕がどうこうよりも、この「中身が違う」という見方がとても印象に残りました。


普通なら「性格が」とか「人間性が」とかになるのでしょうが、中身がというと外身があるということになる。

外見といっている入れ物が外身だとして、中に入っている中身が本物の人間みたいにもとれます。


まあ表情とか立ち居振舞いでも人間性をはかることはありますが、基本入れ物である外身と中身は全く別物だとしたならば

外見だけではまるでわからない

となる。

確かに、自分以外の人が本当に、本当に!何を考えているかはわからないもの。

逆に言えば、自分の中身しかそれがわからないわけで、普段は入れ物というカモフラージュで隠しているとも言える。

それでも、結果周りからかなり正確に判断されてしまうわけで、それというのは

「発言と選択」

を評価されてのもの。


結局中身は頑張るしかないのだ。


休日

posted by take at 16:46| 活動報告

2018年08月19日

どっちもどっち


たけ「今うちの奥さん模写してんのよ。あの…誰だっけ?チョー人気の有名な画家の…耳飾りの少女…誰だっけ?」

ボケキングH(東大出身)「ルノアールですか?」

たけ「違う、ほら日本人に凄い人気の…」

ゴッホだセザンヌだ出るが皆違う。


H「シャメールですか?」

たけ「あ…いや違うよ、それじゃなくて(気づいてない)」

H「あ!シャガールっ!!」

たけ「違う、シャメールでもシャガールでも、ん?シャメール??そもそも画家じゃねーじゃん!!」

H「あ、そっか、ハハハハ」


正解はフェルメール。


ここにY嬢がいたら壮絶なツッコミが入り、更に爆笑の渦だろうが残念ながら不在。

一升って3リットルか4リットルですよね?寿司屋のガリって、あれはガリって野菜ですか?とのたまったHである。

レッスンが楽しくて楽しくてしょうがないし生姜ある。


たけ「ガリは生姜じゃっ!!!!」

H「あ、そういやそんな味ですよね。でもあんまりみんな知らないですよね」

そっかあ?!


レッスン、NTTレッスン、ブロカート
ほとんどの方がご存じだと思います。

posted by take at 16:16| 活動報告

2018年08月18日

隔世の感


9月のリサイタルツアーでやるオリジナル、マルタンは1940年、ヒンデミットは1941年、昭和でいうと昭和15年と16年、戦時中の産物である。(ディズニーでいうとファンタジアが1940年、ダンボが1941年)


どうしても、当時の日本はどうだったのだろう?と比べてしまう。

あくまで推測でしかないから大変乱暴だとは思うのですが、しかしトロンボーンの技術は、物凄い差があったのではないかと思ってしまいます。

ボレロの楽譜を初めて見た日本人が「1オクターブ間違えてるんじゃないか」と言ったという話がある。 1928年に作曲され、日本で初演されたのは1931年。


ヒンデミットは難易度こそ低くないが、音域的には下のEからハイB♭までと、教則本にあるような良識の範囲内。

しかし一年前に書かれたマルタンは、ジュネーブの国際コンクールの課題だとはいえ、ペダルのB♭からハイDなまでだけでなく、短時間にスタミナを消耗するような書き方、難易度の高いスライドテクニックやレガート、リズム、ピアノとの絡み等、飛躍的に技術が向上した78年後の現代でも大変に厄介な作品。

これが生まれたのが昭和15年なのだから、ヨーロッパには当時既に想像以上の高い技術、教育があり、何よりこれが演奏できる名手がいたのだと思う。


日本はどうだったのだろう?


おそらくだが、当時の日本人がマルタンの楽譜を見たら、全く信じられない、狂気の沙汰のような書き方に感じたのではないだろうか。



実は、日本の先人たちのレベルをどうこうというのが言いたいのではありません。

トロンボーンを生んだヨーロッパの進化と当時の日本には、これまた今では考えられないくらい距離や壁があり、レベルではなく彩られていた文化の内容、スタイルがものすごく違ったのだと思います。

西洋に渡り、目の当たりにした人の驚愕、憧れや現実からくる落胆や絶望、それでも逞しく未来を夢見る希望等、様々なシーンがあったのだろうと想像できます。


経った年月を長いと感じるか短いと感じるかはそれぞれだが、現代は絶望よりは希望こそを持てやすいような情報と現実の流通。あまりに明晰である。

故に西洋発のアイテムでも、日本人が高いレベルまでたどり着きやすい環境です。


ヨーロッパやアメリカと比べ、他人と比べるのもいいが、自分の心にある喜びと素直に向き合い表現しても、決して陳腐ではない時代。

やはり幸せな時代だといえるのだろう。


あとは、自分がどう努力できるかだけにかかっている。


川越へ、ジパング

posted by take at 12:47| 活動報告