2018年10月24日

自分の


頭の中に浮かび上がる言葉。失ってしまいたくないものであれば、こぼれ落としてしまう前に活字にし、このブログにでも残したいと思う。思いはするのだが……



グループ絵画公募展を見る。

出展作は巨大なものばかり。広い展示室に入った瞬間、壁を埋め尽くす威圧感たっぷりの絵画たちに、空間をガッツリ占める油絵の具から発せられるそのエネルギーに圧倒されない人はいないだろう。

いくつかの部屋を歩くうちに、とにかく個性の模索からの創作、過去に無き個性を高らかに叫ぶことにより評価を得ようとしていることは理解できた。

同時に経験値の少ない僕には、重めで暗め、おどろおどろしいともいえるエキセントリック、強烈なエネルギーの作品が多いことに興味がわく。

公募展も数あり、出展作風に傾向もあるようだが、それでも「日本人はこれ系なのかなあ」とか「こういかないと認められない風潮なのかなあ」と感じる。


画家本人は、本当に自分が見たいものを描いているのだろうか?


たとえば自分の創作に対する記憶を消されたとして、画家本人がこの出展作の中から一作選ぶことになったら、本当に自分の描いたものを選ぶだろうか

実は個性を感じながらも、同時に似たようなものが多いことにも気付く。現代音楽と言われているものに感じるのと同様に。

現代では、絵を描くというのはこうでなければいけないのかなあ

そう思いつつ、続けて東山魁夷展に入場する。



その一部屋目から、涙がこぼれ落ちそうになるくらい身体中が震えた。


言葉にはならない。ただただ心が感じる穏やかさと美しさ、柔らかさ。


ひとつだけ……今まで感じたことがなかった価値観が言葉になって浮かび上がる。


このような絵を「自分の絵」だと感じるのだろうか


あくまでも鑑賞者としてである。

それならば演奏も、聞き手が「私の演奏だ」と思ってくれれば成功なのか


東山魁夷画伯の絵には、僕の心情こそがそこに描かれていると勘違いできるような、そんな人生のノスタルジアに溢れていたのでした。


N響定期
それでも、こぼれ落として失った数々があるからこそいいのだろうか

posted by take at 16:16| 活動報告

2018年10月23日

洗顔宣言


僕は帰宅したとき、うがいと手洗いはしていたが顔は洗ってなかった。

「洗った方がいいよ」と家人に言われ今後は洗うことに。なぜかはわからないが


「五回は洗う!」


と宣言していた。5回はバシャバシャやるという意味です。

今まで運動やトレーニング以外で、回数を決めてスタートしたことはない。決めないと、適当にチャッチャッとやって済ませ、意味がなくなると思ったのだろうか。

ただこの宣言と共に始めてみたら、なんだかスムーズに習慣づいた気がします。帰ったら「よし、5回洗おう!」。内容よりも5回と。

結構酔っぱらって帰っても、ちゃんと5回をやっている。しかも適当に5回ではなくちゃんと5回。洗い残しないように。

化粧を落とす女性なら当然だろうし5回どころじゃないだろうし。


ちょっと習慣化のパターンが面白いなと、新しい自分を知った気がしたのです。


N響定期練習

posted by take at 18:30| 活動報告

2018年10月22日

平成最期の奇跡


マエストロ・ブロムシュテットとは、それこそ27年のお付き合いである。

そんな巨匠のギャグを初めて聞けるなんて、僕もマエストロも長生きしてみるもんです。


「練習番号11の7前から……セブンイレブンだ」


少し間を置いてから、オケマンから爆笑がおこりました。

内容が微妙だったのではない。全ての楽員、いやN響の歴史において想定外過ぎたのです。


N響定期練習、大塚へ
誰一人オヤジギャグだと思わなかったのは人徳か、そもそもオヤジではない91歳なのか!!

posted by take at 20:39| 活動報告

2018年10月21日

全体が見える


木を見て森を見ず。

森を見ましょう、全体を、大局を見ましょうということだが「部分」や「今だけ」は見えやすいのだとしたら、全体というのはなかなか見えにくいもののようだ。


実は全体って、見ようとした人にしか見えないのだと思う。


見つめる方向として、全体から自然と細部が見えてくることはあっても、細部からは見ようとする気持ちがないと全容は見えない。


若い世代にはいろんな意味で難しいことかもしれないが、それでも少しづつ見る癖をつけていったら、あるときポーンと見えるようになるのだと思う。

その癖がついてないと、年をとってもおおらかに、自由に、あらゆることを許しながら本当の幸せに包まれながら生きるのは難しくなるのかもしれない。


ともしびバンド指導、レッスン、ホルンアンサンブルレッスン

posted by take at 20:38| 活動報告

2018年10月20日

無意味な無理 その2


休憩の必要性を解りやすく考えてみたい。これは唇のこともだが、トロンボーンを一度に長時間持ち続け、肩や腕、首等を壊してしまわないということも含めて。


たとえば

10分吹いて休憩し10分吹いて休憩し10分吹いて休憩し10分吹いたら、スキルアップポイントが合計80ポイントゲットできたとする。

しかしトータルの練習時間は一緒でも、20分吹いて休憩し20分吹いたら60ポイントしかゲットできない、更に40分ノンストップで練習したら、結局30ポイントしかゲットできない、ということがありうると思うのだ。


更に具体的に。

曲の途中のハイトーンが当たる確率がまだ低かったとする。何度も吹いてバテてしまっている状態で、それでも休憩せず当てようと何度もトライ。たとえば押し付けて引いて無理やり息を押し込んで一回だけ出たとする。

実はあまり意味がない。

それなら一度休憩し(場合によっては長く)、少なからず唇が戻ってから練習する。そして当たるようになる方が、余程確実なスキルとして我が身に残るし、確率もぐんと上がる。


もちろん長時間を一気に通しスタミナ配分やペースを測る、全体の流れを感じなければならないこともあるだろう。ただそれは、あくまでそのための練習としてだけやるべき。そしてそれ以上ハードに時間を使う必要はない。本番は一回しか通さないのだから。


いずれにせよ、どのくらい継続しどれくらいの休憩を何回入れるかは、それこそ知的センスにかかっている。見事な勘が働くべきだ。

「あんなに何回も休んで、あいつは根性が無い」という意見は無意味だし、まず自分の中からそんなムードの価値観を排除すべき。

トータルで同じ時間練習しているのに、自分より遥かに素晴らしい演奏をする人間は大抵いて、つまりその人よりも自分の練習の内容がアホちゃんだという結論になっても、結果何も反論はできない。

それは内容だけでなく、きちんと疲労と回復を利用できたかどうかという、本当に知的な取り組みなのかどうかに対する評価だ。

結果、こまめに休憩を入れる勇気とその繰り返しを体現できることこそ「根性がある」ということではないだろうか。


「できるまで止めない」は実はまるで賢くはない。

できるようになるために「立ち止まりコントロールをする」なのだ。


スタジオ
僕は最近は、自分の左横にスタンドを置き、直ぐに自分の手から楽器を離すことも頻繁に取り入れてます。左腕、左肩もとにかく回復させてやらなければ、結局無理して吹いているだけにしかならない。

posted by take at 14:46| 活動報告