2017年12月01日

作品と喜び


皆さん、三択問題です。


あなたの好きなロース肉の部位は?

1,上ロース
2,並ロース
3,リブロース

これがほんとのサンタクロース。(。≧∇≦。)<劇爆)


ということで、そんなサンタもやってくるジパングのコンサート、いよいよ明日になりました。19時から杉並公会堂、荻窪です。



音楽には、何回聞いても嬉しくなるようなものあれば、一回聞いたら次はもういーかーなんて気持ちになるものもある。

ジパングは基本前者のみやることを活動の主旨としてきました。(妥協からの判断ミスで失敗したことが一回だけあり)

トロンボーン吹きとして多少興味深くても、マニアックな感性以外に響かないと判断したら、勇気をもって却下してきました。

明日のプログラムは、このポリシー極まりないものになっています。頭からおしりまで、本当に心に響くものばかり。クァルテットのサウンド含め、必ずや満足マックスでお帰りいただけるでしょう。

あとは私たちが相応しいパフォーマンスをするだけです。

作品に自信をもってコンサートに臨める。こんな幸せなことはありません。

皆さん、まだ席はありますよ。是非杉並へ。


川越へ、ジパング

posted by take at 17:16| 活動報告

2017年11月30日

インアウト問題


室内楽やリサイタルでの衣装、かつては燕尾服を着る人が多かったし、上着着用は当然みたいな空気があった。

僕の記憶では、今プロアマ問わず大半を占める黒のスラックスに黒のシャツというのは、打楽器の人たちが先駆だった印象。

「打楽器はアクティブな動きも多いし上着は邪魔なんだろうなあ。打楽器アンサンブルのシャツ集団、かっこいいなあ」

と思っていた。

今は逆に黒シャツ真っ盛り。量販店での購入者のかなりの割合が演奏家なのではないだろうか。

プロならみんな数着持っているだろう。僕も四枚あるのだが、結局いつも同じなの着ちゃってます。古女房みたいになってきた。


アンサンブルの場合、冬場になるとその黒シャツの上に上着を着るかどうかの相談になったりする。会場の温度により、ベストパフォーマンスができるバージョンを選ぶ。ネクタイをしないのは当たり前で話が進みます。

先日とあるアンサンブルのコンサートを見て「なるほど」と思ったことが。

みんな黒シャツだったが、人によって上着を着たり着てなかったり。でも客席からは気にならなかった。そんなもんです。

逆に個人がきちんと尊重され独立したアンサンブルのようにも見え、悪くないなと。

ハノーファーユニットの連中は、白シャツに黒上着ノーネクタイだったが、ワイシャツじゃないっぽく見えた。離れていたので正確にはわからないが、これまた違和感なし。


それよりも、実はシャツのスラックスへのインアウト問題の方が、センスと品に影響している気がする。

全員入れよう、全員出そう、自由にしょういろいろあると思うのですが……


膨張色の白よりは黒は良いとはいえ、お腹周りが気になる人ほどインしたがらない。普段着ならまあおかしくもないだろうが、ステージの場合は、実はシャツによる。

量販店で買えるもの含め、実は大半のシャツが「出す用」ではない。ドレスシャツのように左右の裾がデザインされていたり、スリットが入っていたりしたなら逆に出した方がかっこいいのだろうが、そうじゃないものは実はみっともなく見えている。

ワイシャツに代表される、裾の前後が長く左右がくびれのように短くなっているものは、明らかにインするための歴史的意味があってそうデザインされている。

それを出してしまうのは、実はきちんと着られていないだらしない状態。


出したい人はシャツを選んだ方がいいですね。僕はインでいけるよう、メタボらないよう頑張るのみです……もぐもぐもぐ


ジパング

posted by take at 12:21| 活動報告

2017年11月29日

リアルと個性


再び千葉は土気、ホキ美術館にて、リアリズム、写実画を楽しむ。

先日上野で、やはり写実展を見たときにも感じたことがあるので書いてみたい。


写実はまずはリアリティーを表現するものだが(本当は更なる奥行きあり)、作家によって画く媒体だけでなく、書き方も結構違って見える。超現実的に見えたりファンタジーが見えたり、美しく見えたりずっしりと見えたり。冷たさを超えて恐怖すら感じるものも。

どの画からも押し付けがましさが感じられないのは、清々しいとすら思えるこのジャンルの魅力だが、ただ作家がアピールしたがっている個性というのは、リアリティーを見ながらもはっきりとわかる。

写実の世界だから余計わかるのかもしれない。リアリズムを描きながら、強く自分だけのメッセージを!

それって凄く難しいことだろうに、他の人とは絶対違う世界観を表現しようという気概がはっきりと見えるのだ。しつこいようだが決して押し付けがましくは感じない。


素晴らしい技術に溜め息をもらし人間の能力の可能性に驚愕しながらも、個人の「負けないぞ」というエネルギーがそこにははっきりと見え、描いている現実の世界や周りのリアリズムと戦っている感もひしひしと感じる。

「自分は自分だ」



なぜ音楽の世界からは、それがあまり感じられないのだろうか。自分は自分だと表現すると駄目なのではとすら感じる空気も流れたりする。

ただこの独りで超現実と向き合うハングリーさと、自分の表現こそ特別でありたいという気持ちをもちながら厳しく戦う勇気は、実は演奏家にも不可欠なのだと思う。

特に若い世代に強く期待したい気質だ。


休日

posted by take at 18:36| 活動報告

2017年11月28日

歩行者への道


僕は昔から、一人でさらっているとき、うろうろ歩きながら吹く癖がある。

基礎練習しかり、曲も覚えてしまってるものは歩きながら吹いたりする。

座ってさらってても、しばらくすると立ち上がり、うろうろしはじめたりする。

特に披露することでもないが、このことを敢えて人に話したことはなかった。集中力を欠いた誉められた行為ではないと長らく思っていたから。


しかし最近、歩きながら吹くことを勧めたりする。というか基礎的パターンのみならず、曲も


「歩きながら吹けなくてはならない」


のです。ビートのテンポやリズムでとか関係なく、自由なスピードで歩きながら、どんなテンポの曲も吹けなければならない。

実はこれができない人がいる。歩きはじめたら曲が吹けなくなってしまう。

この人は、普段から演奏が始まると下半身が固まってしまっている人。同時に上半身にも力が入り、身体の中のどこかでビートをとることができなくなってしまい、リズムや音価がわからなくなり、流れに乗れず不正確にとなる。


下半身のリラックスはとても大事。特に膝と股関節は。

実は座奏のときでも、椅子の上でお尻が踊れるくらいリラックスしていなくてはならない。左右の体重移動ができたり。


歩いているときというのは、無条件に膝も股関節もリラックスからの動きがあるわけで、止まって吹く場合もこの状態が作れれば良いのです。

僕が無意識にうろうろしてしまうのは、座奏による下半身の固まりをストレッチしようという本能かもしれない。


徘徊老人への道へまっしぐらとの説も有り。(涙)


川越へ、講義とレッスン

posted by take at 11:32| 活動報告

2017年11月27日

酒席肯定論


酒と長く生きてきました。

それは、楽しいものであり……後々しんどい時もあり。

ただいろいろストレスを感じている時があっても、誰とどんな話題で飲むかで変わり、全てが明日への希望に繋がることもある。


酒の会を不快の園のように捉え嫌う人もいるし、その長い人生の機微と酒を諸悪の種のように感じる人もいたりするが……


世界中のあらゆる歴史には「禁酒法」を制定した事実もある。結果長く続かず。

そうでしょう。酒で保った世の中、酒で保った感情のつじつまが人間の真実でしょうから。


僕は、辛いときも嬉しいときも、自分を変えてくれる人と酌み交わすことが酒の席なのだと思います。


そこは可能性の宝庫であり、だからこそ酒の翌日は、希望あり、反省あり、そして未来あり、ありありです。


レッスン、ジパング

posted by take at 23:08| 活動報告