2020年02月05日

成長の必須


学びとは攻めである


最近とにかく「攻める」ばかり気になって、あれこれ考えていて。

正直今までこのメンタルをあまりクローズアップしてこなかったのが、自分自身不思議で、なんでだろうと。


実は攻めてる人の大半は、その自覚はないのだと思います。

当たり前だから無自覚

ひとつ言えるのは、学びとは克服であり、攻めなくしての克服はありえないと。


N響の現場を見渡してみて、攻めないでここまでやってきた人はどう考えても1人もいない。そして皆、今日も、たった今も攻めている。

顔つきや態度が物静かで穏やかであっても、ピアニシモやフォルテシモ、ビバーチッシモやモルトアダージョ、価値ある新しい感動を欲しながら、とにかく当たり前のようにガンガン攻めまくっている。安穏と生きている人は1人もいない。


楽聖たちはどうだろう?


もちろんゆるゆるだらだらではないと信じてはいるが、同時に、攻めることもせず欲張って欲しがっていないだろうか?

攻めもせず、直ぐ「できない」「わからない」「退屈だ」「気分が晴れない」と言ってないだろうか?

あまり低い次元のことは考えたくないが、それより攻める生き方、その時間の気分、有意義さ、そして成果を何より当たり前に感じるが如くゲットしてもらうために、連呼し鼓舞しなければならない。


楽聖たちを見ていたら「実はそう言って欲しかった」という内面に見えたりする。

教師とは、生徒が本当に言ってほしいことが言えるようにならなければならないと、改めて思う。安穏と教えている場合ではない。


N響定期

posted by take at 14:27| 活動報告

2020年02月04日

本質と演出


私たちの生活をとりまく全てのことに、本質と演出があると思います。


演奏の本質とはというのを考えたとき、「あらゆるやり口があり、多様な価値観を受け入れる素晴らしい懐が音楽」と理解した上でも、時を超えて残る数少ない表現というのは、やっぱり存在すると思います。

長さに限らず曲の後半、最後の少し前辺りだろうか、クライマックスのタイミングで、積み重ねてきたものが心震える感動を呼ぶ演奏。そんな演奏こそが、クラッシック音楽の本質だと思います。


しかしそういう演奏にならないものは多い。一流といわれ人気のある指揮者、演奏家でもそうだったりする。

彼らの大半は、本質ではなく演出をやりたがっているように感じる。

演出というのは、本質こそがしっかり表現なされた上にコーティングされるようなものだと思う。しかし演出を駆使することが、本質だと勘違いしているように見えるのです。


彼らの共通の特徴は、「出口がない」ことと「新しい思いつきが散見する」こと。

本質を柱にぶれなく求めていけば、クオリティの差こそあれフォルムが変わることはないし、進む道は迷わずにすむ。

しかし本人は演出だとの自覚はないし、その表現こそが本質だと思っているのだろう。とにかくスタンダードから学ばず、自分の色をアンチテーゼや感覚に対する刺激だけから探そうとする人は、そのやり口のアイデアから突発的に現れる新鮮な表現の度に、アゴーギグや流れを変えたりする。

長い付き合いになった指揮者の中にも、若い頃も今も、同じように出口のない世界をさ迷っている人もいる。「本当に無い物をねだり」的な表現探し。効果という虚飾から抜けきれないような。


本質とは本当に素晴らしい領域。それを見つめ、正確な方向を向き、ある意味魅惑的表現は捨てながら進む勇気と、人間の真の喜びの理解、コミュニケーション力を持たなければならない。


楽聖にも言うのですが「瞬間末端細部エスプレッシーヴォは麻薬みたいなもの」。勇気をもって捨てるべき表現はあるし、本質とは一曲の真ん中を一本貫いているもの。

それさえ据えられれば、演出はあれやこれやも許容できたりする。


所詮演出とはそれ以上でもそれ以下でもないが、本質とは無限の力を放ちながら、私たちが人生の時間をかけて辿り着いてくるのを待っている。


N響定期練習

posted by take at 16:38| 活動報告

2020年02月03日

輝かしき受賞


槌音プロジェクトの代表、臺隆明さんが、大槌町から表彰されました。

大槌町制施行130周年記念式典での受賞。震災後、音楽を通じて大槌町民の心の復興に貢献したということが評価されました。


僕を大槌町と繋げてくださったのは竹森道夫さん。かつてN響の演奏業務部長をされていた尊敬すべき方。そして大槌町で受け入れてくださったのが臺さんでした。

2011年から以降、ずっと大槌と僕が繋がっていられるのは、竹森さんのお声がけと、臺さんの献身的な活動の中での交流が続いてきたから。

町民との音楽による交流、そこから生まれる力が動かす復興への道筋のぶれない価値観の柱が、大槌町民であられる臺さんなのです。


幾多の困難があっても、常に冷静に、まさしく惑うことなく判断し進んでこられた印象。

大槌の外から関わりをもってきた全ての人にとって、同じように大きく頼もしい存在であったことは間違いありません。


まだまだ続く復興への時間、そして大槌町民の日常を彩る音楽の発信者として、臺さんはこれからも進み続けるのだと思います。


自分のことのように嬉しくてしょうがありません。

人は、真摯に生きていると必ず評価されるときがくる。それを、はっきりと見させてくださいました。


感謝と共に、心よりのお祝いを申し上げます。本当におめでとうございます!!


N響定期練習、川越へ

posted by take at 15:57| 活動報告

2020年02月02日

ムラを知る


東邦音大でのソロリサイタルズは、今年度学内外合わせで合計9回開催した。

楽聖たちは、毎回違う曲に取り組んだので、試験も合わせると10曲近い曲に取り組んだことになる。

全体として大いなる成長も感じられたが、実は面白い傾向が理解できた。


全員が本番の出来にムラがあったのだ。

ある月は楽聖Aは好調、楽聖Bは不調、翌月は逆みたいな。9回もやると、本人にとって満足度の高い達成感のある回と、不本意な回両方を、全員が経験した印象だ。


あからさまな準備不足は誰からも感じなかった。取り組んだ曲との相性、そのときの意識した吹き方がうまくいかなかった、メンタル的に集中できなかった等、理由はいろいろだと思う。

最終的には、いつも質の高いパフォーマンスになるよう自分のコントロールを身につけていく必要があるが、そのためにもこのスパンで回数経験していくことが必要だとあらためて確信になった。

先月うまくいったから今月うまくいくとは限らない、今回うまくいかなかったがそれを糧にできたから翌月成功する。そんな現実を、まず楽聖たちが知られたことが何よりの宝だと思う。

ムラの無い人はいない。成功しかしない人はいないし、失敗ばかり継続するわけでもない。その演奏家としての現実の理解から、若者たちは強く逞しくなっていくはずだから。


レッスン、ブロカート

posted by take at 18:23| 活動報告

2020年02月01日

イントレランス


新日本フィルに在籍したのは22才から25才まで。

そう、若かった。


四年半の間に、映画の上映に合わせオーケストラで演奏するという企画を、ふたつ経験した。

ふとつはディズニーの「ファンタジア」。もうひとつは「イントレランス」という無声映画。

今では当たり前になったが、当時は大変珍しい企画だった。映像にピッタリ音楽を合わせるのは、困難極まりないという時代だった。

「イントレランス」は1916年に公開されたアメリカ映画。不寛容を描き、人間の心の狭さを糾弾したもの。4つの不寛容を描いたストーリーが、複数のスクリーンに同時上映されるという大掛かりなもの。よって日本武道館、大阪城ホール、名古屋日本ガイシホールでの大規模なイベントだった。

音楽はフランス人作曲家の手による「イントレランスへの交響曲」という現代音楽で、モノクロ映像含め陰鬱難解なものだったが、それでも会場は満杯だった。バブルの特徴のひとつ。今となっては不思議な現象だった。


ときが流れ……


当時興味関心が薄かったイントレランス、不寛容というものを考える機会が今の僕にはある。

逆にあの頃なぜ、今までの何分の一も関心がなかったのか。

本当に経験値と哲学が浅く、また人を信じこそすれ疑わない気質が、危なっかしい若気を象徴していたのだと思う。恥ずかしいばかり。

疑うことを知ったのは大事な成長だと思う。同時に、世の中のあらゆる人の気質の現実を知ることに。「不寛容がたくさん存在しての社会」ということを理解したのだ。


ただ、不寛容を容認することはどうしてもできない。


不寛容をスルーしたり、なんなら認めたりまでして、多様な価値観を受け入れているのは寛容の気持ちなのだ。

逆に不寛容が寛容を認めることは少ない。

もちろん不寛容は社会がもたらす病気だったりもする。しかしいくら考えても不寛容を善しとはできない。

多様な価値観、人間性が混ざりながら生きていく私たちの社会では、寛容こそを強く示し、はびこる不寛容の力を弱めていくことこそが、本当に必要なのだと思います。


川越へ、N響定期

posted by take at 17:49| 活動報告