2019年06月14日

自信への環境


人は人生の時間を通して自信を持ち、時間と共にそれがたくましくなっていく必要があるのでしょう。

ただどんなに年齢を重ねても、磐石で問題のない100%の自信で充たされてとはならない。

というかそうなるとやばい。それは不遜への道筋だから。


若い人にも、未熟ながらもある程度の自信は必要。理論や理屈は構築されきってないから、なんだかわからないが根拠のない自信みたいな。ある意味楽観的視点というか。


問題は、とにかく自信が持てない若者。あってもとても弱々しいガラスの自信のような。

実は生活環境が大きく影響していると思う。


親が投げ掛ける言葉は大きい。

子供がよくわからない、納得いかない言葉で責められたりするとよくないのだろう。

褒めればいいという単純な話ではなく、パーソナルの個性や成長が、親から素直に認められる形で褒められていればいい。


テレビで美容整形のドキュメントをやっている。かなり生々しい。時代は変わりつつある。

整形を終えた人が、強いコンプレックスが取れ何より内面が変わったと言っている。

内面が変わり自信がもてるようになるのはとても良いと思うが、それが外見の手術をしてというのを見たとき、この女性のコンプレックスはどう生まれてきたのだろうと考えてしまった。


一般的に見るととても美人には見えない、どちらかといえばそうではない女の子が、母親から「〇〇ちゃんは本当に美人だから」と育てられ、自信に溢れた人生を送っている人を知っているが、少なくともそうではないのだろう。

あと、高校や大学の周りにお洒落な美人が何人かいて、男女皆がもてはやし、自分を比べてしまっていたとか。


男の僕には辿らずに済んだコンプレックスだが、やはり外見以上に人としてのパーソナルに自信を持てるような環境が必要だと思う。


あんたは男だから。男が女の外見を言うからじゃない。


ま、そうなんですが。


長い人生を充実して生き抜くには、最終的にはパーソナルの自信が一番の支えになるし、子供の頃に派生しはじめた方が良い気がするんです。


外見の自信は大事ですが、もっと大事かと。

親と環境。


N響定期

posted by take at 18:03| 活動報告

2019年06月13日

50代


僕は今月54才になります。

実は、50代の10年、今までの人生の中で一番変わりたい、成長したいと思っています。

50になったときに思ったのではありません。最近になって思いはじめました。


10代20代30代40代、今思えばそれなりに変わってきたのだと感じていますが、そのときは変わりたいと強く思っていたわけではありません。変わった自覚も薄かったし、それまでより一番というのは全くありませんでした。まだまだ未来があり、そら変わるのだろう、なるようになると思っていたのかもしれません。目標はあるにはあったし、理想やプランもありましたが、全体的に「こなしていた感」もあったと思います。


60才が見えてくる10年は、カウントダウン的に捉えることもできるし、若い世代、世の中全体からはそう見えるかもしれない。

しかし50を過ぎた今、よりリアルに具体的に変わることを望んでいます。漠然とではなく、理想をより具体的にして。

人生の後半らしい、前半全体とは違うテイストで、考えたりプランニングしたい。



……60代は?


まあ60代が人生で一番成長できたら、それはそれで素晴らしいのでしょうが、今の時点でそれを目的に生きるのは難易度高過ぎというかよくわからないので、とにかく50代の今のことだけを考えたい。

もし50代で一番成長できそのときを迎えたら、その先があるかもしれないし、違う考えかもしれないし。

そもそもどうなってるか皆目わからないが、50代の残り6年は、あまりに貴重で、チョー変われたらなあと思っています。


N響定期練習、川越へ

posted by take at 10:46| 活動報告

2019年06月12日

譲るべき譲られるべき


勇気発動ベストタイミングで席を譲る。当たり前のことなので、自慢することではない。

立っている高齢者をやきもきしながら見つめなくても良い安堵感と、もうひとつ思ったことがある。


実は全ての人が、席を譲るべき人間か譲られるべき人間かに分類される。

僕は53歳で決して若者ではないが、しかし自分は譲られるべき人間だとは思っていない。

ということは、譲るべき人間だということになる。

いつの日か、目の前の人が譲ってくれないかなあと思う瞬間がくるのだろう。その瞬間に、譲られるべき側の人間になるのだと思う。

ということは、そう思ってない人は皆、譲るべき人間だということです。

譲った方がいいではなく、譲るべき。


誰に対して?


それは、自分が「譲った方がいいかなあ」と思ったら、その瞬間に前に立っている相手がそう。

私は譲られるべき人間ではないと思っている人は、必ずしも座ってくれない場合もある。

それでも、やるべきことをやった人を責める価値観は存在しない。


N響定期練習、川越へ

posted by take at 15:56| 活動報告

2019年06月11日

細川ふみえより松任谷由実


ある時代、人気を博したアイドル、細川ふみえさんの愛称は「ふーみん」だった。


そしてN響にはかつて「N響不眠クラブ」という、まるでオフィシャルじゃないグループがあった。

木管の数人が中心だったと思うが、自分の眠れなさぶりを語り合い、少しでも改善への方法を模索していたように思う。

深刻なのだろうが、結局N響でのプレッシャーが大変だと語り合い、お互いを励まし合うという、素晴らしい関係だった(部員でない僕にはそう見えた)。


僕は毎晩のように飲酒をたしなんでいるので、それもあって眠くなり、まんまバタンとベットに倒れ混む感じ。

それでも、年に二度三度は眠れないときがある。

夕べのように、夜中に起きたらそのまま寝られなくなったり、そもそも寝つけなかったり。

原因はいくつかあるようだが、はっきりとはわからない。考え事があったり、悩みや宿題があったり、はたまた興奮していたり。

ただ共通してるのは、大抵の場合


「……これって、寝られないやつかも」


と自覚から始まること。

羊を数えたり、敢えて起きてしまったり、いろいろ試したが結局、

考え事が頭から無くなりしばらくしたら寝られてた

というタイミングを待つしかない。待つしかないんだよなーと考えてるうちは、目も頭も冴えている。


睡眠導入剤を服用しようとは思わないし、今あっても不眠クラブに入部しようとも思わないが、あの頃情報交換されてたやつ、小耳に挟んどけばよかったなあなんて思いながら、起きてたりする。


ふーみん本人とファンの人たちは寝られていたのだろうか。

みんなでっかい声で「L・O・V・E!!アイラブふーみんっ!!!!!」って叫んでたわけで……


N響定期練習、大塚へ

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2019年06月10日

フォルテの流儀


ダイナミクス。誰しも無限に大きな音がでるわけではない。大きな方へのベクトルにも限界がある。

人によって大音量の到達点には差があるだろうが、実は個人として目一杯力を使って出した音というのは、音楽に必要な最大音量には認定できない。

なぜなら、その時は、口元に反ってくる抵抗を更に超えて出そうと力みの極みを使っているはずで、その音からはうるささという不快、美しさの逆の印象になる痛さにも感じる耳障り、音が破れるような割れ、そして何より、時のスムーズな流れを生まなければならない音楽演奏において、独特の「止まった感じ」があるからだ。


ということは、自分から出せる最大の音量より手前に自分のMax、到達点があり、それが自身のダイナミックレンジということになる。


多くの人が勘違いしやすい特徴として「張り」がある。

日本人は「もっと音を張って」と表現したりもするが、おそらく外国にはない表現なのではないだろうか。

敢えて言うなら「その音量でキープして」というのが正しいのだと思う。「おっきなフォルテでキープして」とか。

しかし日本では力を抜いて脱力してしまった表現に対して「もっと音を張って」と言う。

このことにより、硬さや力みがコーティングされることが多く、それが淀まず流れ続ける印象になるべき音楽を、止めてしまっている要因になっている。

お肌なら「ハリと艶」なんて言っても素晴らしいものとして成立するが、実は音はピンと張ると艶は出なかったりする。

柔らかさと脱力という「張る」というイメージとは逆のことを注入して、初めて艶は登場する。


これらを合わせて考察すると、大きな音量になっても

張りという抵抗を作るのではなく、息がスムーズに流れ続けている、広がる響きと脱力が共存し、それがキープできている


その状態における一番大きな音が、自身のフォルテのダイナミックレンジだと言える。

それ以上力を使うと張がでてきてしまう、その境界線がフォルテの流儀であり、息の流技なのだ。


レッスン

posted by take at 14:05| 活動報告