2013年02月18日

対話というお薬


僕は無口な人間で……あぁ!物投げないでください!!冗談ですよ、冗談。

……ただ “よく喋る人間" だとは思ってなかったのです。すみません。

たけ 「フツーじゃない?」

と。しかし知人が言い出した

M 「よく喋るデスラー」

は、なぜかストンと納得。そして同意する人々の言葉から

“実はよく喋るらしい"

というのを自覚する。まあ、こんな長い文章書いといて “自分は無口" なんて冗談でもいうヤツいたら、僕でも “混ぜた納豆玉子入り" を投げつけますね。食べ物投げちゃいけませんが。

先日、10年以上ぶりにレッスンを受けに来た生徒と話していた時、この活動情報の話題になり

たけ 「まあ、こんな人生になっちゃって自分でもびっくりだよ。なんで毎日、あんなに長々書いてるんだろう」

と、自分に?マークを投げてみた。

M 「いやあ、先生は伝えたいことがたくさんある人ですから」

と。これまた、プチびっくり。僕って伝えたいことがたくさんある人間なんですね。知りませんでした。本当に自分のことってわかりません。最近になって、そんな自分 

“吉川武典とは何者か"  

を教えてくれる人が増えてきました。そんなお年頃のようです。


あまり喋らない人、いますね。社交場で特に。しかし、そんな人も “きのおけない仲" の人になら、喋りたいこと喋ってるんじゃなかろうか。家族、親友、恋人。ソーシャルネットワークに熱心な人は、文字でせっせと対話をしている。そう、みんな

“話したい"

のでしょう。

珍しい休日、一日家にいてテレビばかり観ていると、だんだんしんどくなってくる。何かしら用事を思い出し、電話をしてみる。一分くらい知り合いと喋っただけで、スーッと楽になったことが何度かある。

一日誰とも対話が無かったら、僕はおかしくなってしまう気がする。しかし喋らない人は実際いるし、引きこもってしまうからの精神を病んでしまう人もいる。そんなパターンには、理由があるのでしょう。

誰だって、話したことを否定されるのは望まない。しかし、稚拙なことや、場にそぐわないこと、とんちんかんなことを言ってしまった場合、周りの風当たりは強いのが一般社会。ある時から空気も “読むもの" になったし。冷ややかな目線から、強い言葉でたしなめられる、なんてことを何回か経験したら、そりゃ

“喋るのが嫌"

になり、黙ってるからの、人と会うのがおっくうになるからの、引きこもってしまうに繋がるのでしょう。

しかしその人は、本当に喋りたくないのだろうか?

先日とある高校生グループが被災地支援をしたいということで、僕も話し合いに参加した。意見を聞かれ、感じたことを話してみた。

たけ 「被災地の現実を知るのは大事だし、被災者の方々が何を望むのかを知ることも必要。しかしみんな行けるとは限らないだろうから、まずはみんなと仲間達、どんな形で支援したいのか、どんどん意見を言い合えばいいんじゃないかな。ただ “こんなこと言っちゃまずいかな" とか “幼稚でとんちんかんかな" みたいに感じる雰囲気にはならずに、どんどん意見を出しあえて、そして先生と相談しながら、まとめてみれば一番良い内容になると思うよ。みんなから意見が出にくい雰囲気にだけはならない方がいい。困っている人を助けたいというのは、それだけで崇高な思いだから」


先日書いた 『指導とは……』 の中で、僕が模索していた “先生と生徒が対等って" というのは、生徒が “ある程度自由に発言ができる" ということではないだろうか。基本生徒の方が若く、しかも教わる内容は先生より理解が出来てない場合がほとんどなのだから、それだけで稚拙っちゃあ稚拙なのだと思う。しかし、生徒に

“発言しにくい雰囲気"

というのを作ってはならないのだと思う。たとえ内容が幼稚でも、はたまたとんちんかんでも、礼儀をわきまえた上で自由に発言できる。放置しない方がその後の人生によさそうなことだけ、人生の先輩としてたしなめる。しかし自分がそれをしなくても、年齢を重ねいろんな経験をすれば自動的にいい感じに成長するのだろうから、逐一否定したりせず、時には認めてみたり、なんて余裕があれば実は素敵だ。


要は話したいなら “聞く人" が必要で、その

“聞く側のスタンス"

がとても大切なのではないだろうか。全ての人が聞き上手なら、きっと引きこもりはいなくなる。基本自分も最初は稚拙だったのだから、否定ばかりせず “議論に持ち込める力" なんかももってみる。

自分も話したい、だから聞くことは大切。なんか女子のようだが、対話という行為に “思いやり" が盛り込めれば、どんなお薬よりも、健康と幸せを呼べる、そんな気がします。



N響定期、練習初日。川越へ。

posted by take at 21:07| 活動報告