ひとりでやることなら自分のやりたいようにやればいい。
しかしそこに携わる人が増えれば増えるほど、最後の最後は「各々の最終的希望の合致」というのが、最も素晴らしい結果に繋がる。
最終的希望というのは、他人の希望に合わせたものを自分の希望にするということではなく、自分の本音の領域にいる本当の希望ということ。
特に仕切る人には、それを目指す感覚がある方がいい。
たとえば僕の場合、アマチュアオーケストラの指揮と指導という立場がある。
最近特に意識して探しているのが、「アマチュアオーケストラを聴きにくる人が本当に聴きたいのはどんな演奏か」というもの。もちろんいろんな立場の人がいて、開演前はばらけている可能性は高い。家族友人、自分もアマオケの演奏家、愛好家、なんとなく聴きにきた、何かしら比べるためにきた、初めて聴きにきた、自分の意思で、人に連れてこられた等々。
しかし演奏次第では、この多様な人たちの大半を満足させることができるはず。それはどんな演奏か。上手ければいいのか。下手でも情熱的であればいいのか。凄く下手でも、本当に満足できるのか‥‥
そんな聞き手の本音領域にも、必ず共通の希望はあるはず。
そしてアマチュアオーケストラの団員の皆さんの希望。これまた技量や取り組みが人によって色々だったりするので「求めていることは人によって違う」なんてこともよく言われる。それでも最大公約数的に昇華していけば、それこそ大きなエナジーとして満足感に繋がる可能性は高い。
そして前に立つ自分の希望。
以前は僕なりに思うことがあり、演奏が整っていればいるほど団員の皆さんの喜びに繋がるだろうと信じていて、そのことが尖っていたように思う。
しかしあるとき気づいたのは、前に立っていればわかる整然への変化も団員の皆さんには実感がなかったり、雰囲気によっては窮屈に感じていそうだということ。そうなれば団員の皆さんの一番の希望ではないということになる。
指揮者の希望に団員が合わせているうちはまだまだなのだろうし、逆に団員の雑多さに指揮者が合わせたり、見切ったように諦めることで迎合しようとしたりというのも違う。
そもそもかつては、聴きにくる人の希望というのを真剣に考察したことはなかった。
今は三位一体というか、三希望一体ということをよく考える。最後は、そここそが同じになること。
聴衆の一番聴きたいものを演奏できる。それに合わせるという意味ではなく、本音としてそれが団員や僕の一番やりたいことそのものであること。団員の皆さんが欲している練習の内容と僕のやりたい練習内容が同じであること。
全てを測るバロメーターは笑顔だろう。
WBCのあらゆる総括を見ながら、栗山監督の目的や希望と選手たちのそれ、そして応援した国民の希望に全くズレがなく一体化していることを感じ、成果を上げ切るための条件の理想がそこに見えた気がするのです。