もしかしたら未来においては、「怒り」というのは、犯罪と認定されるほどの罪悪となっていくのかもしれない。
教育の現場では既に疎外の空気感に包まれているが、それでも子供の躾はじめ「怒るときには怒らなければならない」という価値観は純然とある。
自分たちは怒られできたおかげでまともな方向へ成長できた実感が強いし、未熟な存在がダメなことをしたときにもし怒らなかったら、それはほったらかしにし結果容認したことになり、そのせいでそれを続けてしまう大人になるのではという強迫観念は強い。
よって家庭と教育現場で押し付けあってきたような「叱責による教育」は、やはり必要だと。
しかしどうだろう。
「怒りの感情からは得るものが少ないどころか失うことが多い」という考察の元、怒りを抑える世代が大人になりつつある現代。そのうち、そんな世代に育てられた「怒られたことがない人たち」で社会は回っていくことになる。
僕自身、自分と相当違うであろうそういう世代の人たちに不安がないと言えば嘘になるが、もしかしたら彼らは我々以上に怒りに対する嫌悪感が強く、よって自分からはその感情が湧かないという人になっていくのではないだろうか。
自然と押さえ込まれていくように進化する。もしそうだとしたらかなり未知の世界であり、進化というより、凄い変化と言った方が正しいのだろう。
そうなったとき、もう怒りそのものは、原始的な人類が持っていた過去の感情であり、それ自体罪でしかなく、困ったことやまずいことが起こった場合も、それに変わる感情で相対し解決していくみたいな世界になるのかもしれない。
怒りこそが戦争や殺人の種であることは明白で、それを無くしていくことが人類の目標なら、平和な世界からは怒りは排除されるのかもしれない。