「イエスマン」とはとても怖い言葉に感じる。
本質的にそうあってはならないのに、多かれ少なかれ相手にそう望みがちだという点で、麻薬のような癖と常習性すらあるのではと。
相手に望むのも問題だが、そうした方が良いと表現することでどんどん自分を失っていくというのもあまりに怖い。
生徒に対しても
個性こそ本当の価値、調和に能力が埋没してしまわないようにと願うと、とにかく「イエスマンではダメ」「イエスマンを望んではダメ」と考える。
しかし気がつくと一方的だったり、画一的なアプローチになってしまう理由のひとつに、イエスマンの逆が「反抗的」と考えてしまう部分もあるのだと思う。(もちろんそれ以外の理由はある)
反抗されるのは嫌だから礼儀を強調したり、とにかく正解(とこちらが思っている)ことを言い、言い返せない、思い返せないようにしたり。
ただ、より正確に考えたい。
「イエスマン」の反対は「ノーマン」や「反抗する」ではない。そもそも礼儀というのも「イエスノー」とは関係ない。
多様化、そして個性。
個の魅力を認め求める。若き個人たちに素直で率直な表現を求め、それを称え、自分の思いと異なっていても本当に否定すべきかはよく考える。
そもそも冒険とも言えるエネルギーが生み出す新しさは、大いに歓迎する。
そういう意味で、自分こそが彼らのイエスマンになるべきだとも思う。