2019年05月25日

リスペクトと単純に魅力


ここ数年、トロンボーンフェスティバルにおける作曲コンクール「ピース・オブ・ザ・イヤー」の審査をしています。

年々、作曲家と作品の位置関係も少なからず理解できていっているのですが……

未来に残る、再演され続ける作品を生むために必要なことが見えてきつつある気がしています。


ミュージックトゥモローをやっていても感じるのですが、現代の作曲家の産物は、そのほとんどが絶対音楽ではなく、何かしらを描写したものが大半。

モーツァルトやベートーベンのほとんど、シベリウスの交響曲のように具体的タイトルは無い音楽とは違い、風景や物質、現象や心情等、何かしらはっきりとしたものを描写している。


つまり私たちが知る何かしらを音楽にしたものが大半なのだが、その選んだものに対する思い、リスペクトなのか愛情なのか、はたまたどうしても表現したい程重要視しているものなのかがあまり感じられない。

被写体(あえてこの言葉でひとくくりにします)に対する強い思いがあるというよりは、音楽にしたら面白いのでは?となんとなく選び、それがよりきちんと表現できている、技法を駆使してリアルに音楽化していることに目的意識がある気がします。


実は、その選び方と目的では、説得力のあるものにはならないと思う。


ホキ美術館で写実絵画を見始めたとき、説明されている意味合いに深く頷いたことがある。

画家たちは、ただ単に写真そっくりに描くことを目的としているのではなく、被写体に対するリスペクトを柱に生み出すのだということ。

それ故に写真そっくりであってもはっきりと画家たちの個性が感じられるし、あまりに素晴らしい表現が、観る人の心を揺さぶることになる。つまり作品として美しさや迫力、精神性等の表現が、写実的再現テイストであっても、魅力的だということ。


そうなると現代の音楽も、被写体に対する強い思いと、音楽として聞いていてシンプルに魅力を放ち、その美しさや迫力、かっこよさに、心を揺さぶってくれる魅力を描いてくれないと、人間たちは高い価値評価から後世に残そうとはしないとなる。


音楽は人間だけのものであり、ただ私たち人間の快楽のためだけにある。

さほどの思いもない題材を、音楽化することだけをされても、その技法やセンスを自慢されても、響かないものは響かない。


リヒャルトシュトラウスの「アルプス交響曲」

アルプスの山は、登ったことの無い人間でも、その雄大さ、危なさ、ドラマとも言える多彩さ、自然との共存、そして御来光の素晴らしさが物凄く非日常的に価値があるのがわかる。シュトラウスの憧れははっきりとわかるのだ。

そして何より、音楽としての彼の産物は単純に魅力に溢れている。


だから人々は、ずっと演奏し続ける。


N響練習、レッスン
高嶋圭子さんから選ばれるものは、彼女の強い趣向と使命感に指名されている。音たちが魅力的なのは言わずもがな。

posted by take at 17:33| 活動報告