2018年06月19日

らしさ


未来へ向かって、現存するものより更に技術が発展し、停滞せず新しい魅力が作られていくことは、人間の実力のひとつとして素晴らしいことではあると思う。

だから、今やれていることではないものを求められること、その全てに?がつくわけではない。


ただ、世の中とはどんなに価値観が多様化しても、その柱として社会を構成しているのは「それらしさ」なのだと思います。

トロンボーンならトロンボーンらしさ。うどんならうどんらしさ。

しかしいくら新しいこととはいえ、らしさではないものを求められた時に、

「これ別にトロンボーンでなくてもいいんじゃない?」

と、強く思ってしまう時があり、そうなると作り手の意図に?がついてしまう。


かつて現代音楽の室内楽に参加した際、最初はグバイドゥーリナやクセナキスの超難曲に苦労しながらも達成感と共に終えられたのだが、翌年の邦人作品特集で、かなり違う空気感にテンションがグッと下がってしまったことがあった。

楽譜はさほど難しくはなかったのだが、テンションの下落はそのせいではなかった。

譜読みから合わせまで、演奏家としての喜びは皆無に等しかったのです。

スコアを見ると、作曲家が思いついた音形があらゆる楽器で受け継がれるように書かれている。つまりその音色の変化や、組み合わせによる新しいサウンド、世界観を狙ったのだろうが、そこにはトロンボーンらしさ、バイオリンらしさはまるで感じられなかった。

作曲家にとっては、音色の違いだけが私たちの個性だと判断したのか、明らかに「素材」「材料」としてしか扱われていないのがはっきりわかった。


グバイドゥーリナやクセナキスの作品は、楽器のシステムや特性を知りつくしたもので(ラヴェルがボレロを書くのに二年以上トロンボーン奏者から学んだが如く)、その上で


「これはできるかい?」


と、煽ってきているようだった。

だから超絶技巧もムキになってさらうことができ、それが本番のテンションと終演後の満足感に繋がったものだ。

この人たちは、


トロンボーン奏者ならこれこそができるんだろ?


と喧嘩を売ってきている。買ってやろうじゃないか!!


しょせん地球上には、自然らしいもの、動物らしいもの、人間らしいものしか残っていかないのだと思う。

音楽は人間同士だけのコミュニケーション

作曲家の方々には、人間らしくこそいて欲しいという暴言を吐きます。


ちなみに、僕は人間らしい作曲家の方とお付き合いがある。

ベートーベンやブラームスと何も変わらない尊敬で相対せるのは、らしさに溢れているからだ。

無駄に実験ばかりしてらしさを失わない、そんなヒューマニズムに満ちている。


N響練習、川越へ

posted by take at 22:31| 活動報告