2018年05月23日

勝つとは


自分が勝つということは、負ける誰かの存在、その人の辛さの上での喜びを得ようということに必ずなる。

勝ち続けようとすると、現実的には延べたくさんの人の辛さを引き換えに、名声や喜びを得ることを目指すということになる。

負ける人がいるから勝つ立場に立てるわけで、それでも勝つことが素晴らしいと叫ぶのが人間だ。

冷静に考えたら、優越感といういやらしい感覚を否定しての勝利への欲望は成立しない。


そして現実的には、何をやったとしても常勝ということはあり得ない。

勝つことがあったり、負けることがあったり。私たちの人生、いかなる世代でも、常に必要なのは勝っても負けてもそのことから得るものがあり、それまでの自分が変われること、成長できることだろう。


いろんな経験からのみ、幅広い成長が得られる。このことこそを勝利と表現したい。


そう考えると、常に誰かを負かしてまで勝ちたいと思い続けるのは、幼稚な考え方ではないだろうか。真理にそぐってないし、成長ではなく停滞からの退化に繋がっているとも言える。


教育関係者は特にそうあるべきだと思うが、

勝負事に向かう時に「勝ちにいく」のは大事だと思うし、その為に努力することも知った方がいいのだが、

必ずしも勝つばかりではなく負けることがあり、

たとえどのような結果になっても悔やまないどころか、そこから学べるために今を全力で生きようと伝えることこそが、判断として根っこになくてはならない。

自分がそのとき勝てたとしても、圧倒的多数の敗者が必ずいて、以降彼らと共に社会を形成していくということをわかっていたい。

実は人間の本質としては平等であり、勝てたとしたら今回は自分の方が、このタイミングで認められただけ、負けた人がダメな取り組みだったとは限らず、非難すべきかどうかも怪しいので、悦びに包まれたときこそ不遜にならないようにと伝えるべきだ。

たとえさほどではない取り組みで負けた人がいたとしても、敗者の悔しさや悲しさ、むなしさを理解できるだけの人間的強さをもった勝者であるべきだとも、若者に要求できるだけ成熟したい。


結果至上主義、成果至上主義、そして勝利至上主義というものが存在するとしたら、一過性のものは常に泡のようなもの。本物とは、ひとりの人の人生が終焉を向かえるときに、本人が実感する可能性があることであり、そのときに周りが去り行く人の生きざまから感じることかもしれない。

人生の長い時間で、たった一度だけはかる時がくるもの。

僕にはまだわからないが、そのときには当人には結局それは存在せず、周りがどう感じようが、本人は身近な愛だけを反芻しながら、現世を去るだけだという気がする。


結局勝利なんて、それ以上でもそれ以下でもないものなのではないだろうか。


休日

posted by take at 23:08| 活動報告