2017年09月29日

ルールの価値 実力の価値


天下のミュンヘンコンクール、そのトランペット部門で、違う課題曲を吹いたのにあまりに上手かったため予選を通過した人がいたというエピソードを聞いた。

聞いた瞬間「へぇ、面白いなあ」と思ったのですが、直後に「え?そ、そんなのあり?!」と、現実に起こったことの特異さに驚愕してしまった。

様々なルール逸脱からの寛容ともいえる容認あれど、国際コンクールの、しかもあの泣く子も黙る世界一の権威を誇るミュンヘンコンクールにおいての「課題違ってオッケー話」は、


いや、それはないでしょ!!


と。オフィシャル過ぎるし、説明つかなさ過ぎる内容にしか思えない。


で、やっぱり「クレームはどうなったの?てか、そもそもなんで通過できたの?」となる。

当然参加者たちは審査員に詰め寄ったよう。海外のコンクールですから、その姿も遠慮なく激しいものでしょう。

「あまりに素晴らしい演奏だったため、審査員で話し合って先へ進んでもらった」

そうなんだろうけど納得にはほど遠い説明です。


ルールこそ大事、なにせはみ出ない協調が大事だから皆で守ることが大事、それを元にとにかく周りを気にする気になるが遺伝子の根っこガッツリにある日本人なら、余計理解不能な結果。

当然「それ認めたらなんでもありじゃん」とか「みんな自分の得意な曲やるよね」等の感想が、周りの日本人から聞ける。

ただこの思考の向きこそが、やはり日本人らしいのかもしれない。

日本のコンクールだと、前奏をカットしたなんてことだけで落とされたりする。音がやたらいいとか、歌いかたがあまりに魅力的だとか、一芸の秀でた部分を評価したりするヨーロッパとは、まずもって見つめかたそのものが違ったりする。

まさか違う課題曲吹いたことが一芸だったのかと、ワケわかんないことまで浮かんでいったが、日本人からすると、総合的高品質(ルールは当然守る、守れない時点で門前払い)こそとの価値観となる。

とにかく一芸ではない。


違う課題曲でもクレームをねじ伏せて通すことがまかり通る。ヨーロッパでももちろん頻発することではないだろうし、誰かが危惧したように「じゃあみんな自分の得意な…」とはならない。それでも日本人からしたら理解の外という価値観がそこにはある。


ひとつ思い出すエピソードが。僕が20代の頃、件のミュンヘンコンクールを受けた時の話。

二次までで終わったチャレンジ、僕はその後の演奏を聞きながらいろんな刺激を受けていた。

三次予選でアメリカ人の女性が、素晴らしく美しい音でワーゲンザイルのコンチェルトを吹いた。それが聞いたこともないような八分音符単位アダージォのびっくりするくらいゆっくりなテンポだったが、見事にファイナルへ進んだ。

それを客席で聞いていた、当時東京音大で講師をしていた故白石直之さんが、僕の方を振り返り

「吉川君、ああいうの駄目でしょ」

と言ったのです。

駄目というか、やはり「あんな遅いテンポ、いくらなんでも…」と、スタンダードの呪縛を価値の根っこにもった感想になりながら、しかしその言葉が胸にささり現在まで抜けないことになる。

「同じ人間として、世界の価値観は君が思うより全然幅広く、既存概念にとらわれるこそこそ進歩、進化の邪魔をするんだよ」

あのとき、白石さんは僕にそう言いたかったのだと思います。(そんな白石さんは、僕の演奏をとても高く評価してくれていた)


もうひとつ。

クロマティの「日本の野球はレベルが下がった」という発言。

意図としては、あまりに組織立っていて個人の力が出きってないと、日本人の美徳を真っ向から批判するようなこと。長嶋・王の時代から、日本人には協調の美意識はあっただろうが、それでも際立ったスターとその他という図式ははっきりとしており、チームプレーといいながら己が目立つことをまことしやかにやりきる空気はあった。個性的なフォームのピッチャーやバッターも多かった。

チームこそをという日本人の能力の進化を、レベルが下がったと言い切る価値観も実は存在する。


課題曲を当然選ぶことより大切なことがある。協調が必要だから存在するルールより大切なことがある。たとえ皆が平等でなくてもだから何?いや、それを超えてることこそ素晴らしいではないか。

そう叫んでいるジャッジから、私たち日本人も、本当に価値あるものを生むための価値観、これから本当に向かうべき理想の先を、正確に感じたいと思う。


休日
ちなみにそのトランペット奏者は本選には進めなかったそうです。

posted by take at 14:59| 活動報告