2017年07月27日

演奏が存在する場所 その2


「音程はトロンボーンの中にあるんじゃない!自分の中にあるんだ!!」

と、青島刑事は叫んでましたが、リズムがトロンボーンの中にあるイメージはないにせよ、音色や音程はあると考えやすいですよね。

実際「この楽器は音がいい」「この楽器は音程が悪い」なんてことはメジャーな日常会話。

もちろん、この発言が間違っているとは欠片も思いません。ただ、そこを肥大して価値観の中心に据えると、自分とトロンボーンがどんどん分離していくと考えはじめています。

これら楽器に対するアプローチだけでなく、そもそもメジャーな基礎トレーニング法やエチュード、レッスンで細かく言われること、スライディングやアンブシュアのピックアップも含め、克服法なるものも、語れば語るほど、

「トロンボーンと自分は結局別のものである」

ということを膨らませているように感じます。


そうは言っても、ピアノもバイオリンもそういうことしか、一般的に設定することはできない。だからおかしいとかそういうことではなく。


ピアノやバイオリンは世界中で凄い数の人々が取り組んでいるのでしょう。エチュードをさらいレッスンを受け、曲をさらい発表し。

ただ、中には数は少ないが神童と呼ばれる人たちがいる。まだ小さいのに信じられないような演奏、表現をする。若くても、上手くて上手くて、世界トップオーケストラのコンチェルトのソリストに呼ばれる人もいる。


その他大多数の人とは、一体何が違うのか。才能の正体とは一体何か。


それが、楽器との関係性ではないかと思うのです。

大多数の人は、楽器とがっつり向き合い、克服しようと格闘する。

神童や天才にとっては、まず自分の中に演奏の全てが感情と共に消化されて存在しており、僕らが楽器と呼んでいるものはただのメガホン。相対して格闘するものではなく、表現しやすいように扱うもの。

自分の中で表現は定まっているので、それが出てくるように扱えば、自動的に私たちが理想の奏法なんて言ってるものになってしまう。

自分が100で道具は0。

音楽が存在しているのは、100%自分の中で、メガホンの方は0。拡声器なだけ。

あの、でかくて、指先しか密着しないピアノですらそうじゃないだろうか。


N響ほっとコンサート練習、川越へ

posted by take at 20:02| 活動報告