2017年07月26日

演奏が存在する場所


赤ちゃんは、わきあがるその豊かな感情を、相手に正確に伝えるツールでもって表現することができない。

言葉を持ってないから。

だから泣くしかなかったりするのだが、残るかどうかはわからないが、その瞬間はかなりストレスを感じているのではないだろうか。

僕らだって、今この頭で読み書き喋りが全くできないとなると、わめくしかないし、ストレスなんてもんじゃなく大変な辛さだろう。


赤ちゃんより、更に感情が多様に種類を持った私たち大人。そこまでの過程においても、小学校くらいまでの日本語のトレーニングにより、この素晴らしいスピーキングツールを手にする(口にする)。よって、話して伝えることでかなりストレスを発散することに成功するようになってますね。(同時に「聞く」ことも多様になるので、受けとることによるストレスはたまったりするが)


この「日本語が話せるようになるトレーニング」というのは、日本国数千年の歴史でもって超研究されまくり、極めて洗練された内容になっているのだろう。ありがたや。

その素晴らしい教育の甲斐あって、自分と日本語というのが分離しているイメージは一切無い。感情と言葉、その表現は一切の隙間なく一体化している。他人においても、大人の日本人と相対した時はほぼそう感じる。

外国語になるといきなり分離。感情が簡略化されて発せられたり、場合によっては違う内容になってしまったり。伝えるだけの技術が低いので、残念ながら一体感が薄い。もちろん僕の話です。


実は楽器の演奏も、自分と我が日本語のように、まるで分離することなく一体化していると良いと思うのだが、僕は今までそうなるために

楽器とどう向き合うか

とか

楽器とフィフティーフィフティーになれるために

なんて考えていたが、その考えは大きく変わってきた。


音楽と演奏、わが感情と表現は、全て自分の中にのみあるべきで、トロンボーンと言われているものはただのメガホンであると。


つまり、自分の中に全て存在するくらい自分自身が100でありトロンボーンは0に近い存在であるべきじゃないかと考えるようになってきた。

相手が話しているのを聞いた時は、その人の感情、意見しかその存在を感じない。日本語の存在は感じないのだから。


ということは、日本語が喋られるようになる教育法のようなトレーニングが必要だということになる。

ヒヤリング、文法、語彙、実践、評価……


音程も音色もリズムも、音楽も演奏も感情も表現も、トロンボーンの中には一切無い。全て自分の中にしか存在しない………

どうすれば、そうなれるのか。


川越へ

posted by take at 15:24| 活動報告