2017年06月14日

王様の演奏


音楽を聞く、その演奏を生み出す人の年齢は、実は聞き手にとっての喜びには全く作用しない。

感動的な演奏をした人が80歳でも60歳でも、40歳でも20歳でも、10歳であったとしても「だから良い、良くない」という聞き方はしない。

人間的成熟度と演奏の成熟をイメージで照らし合わせ、驚いたり納得したりすることはあってもそれは一瞬であり、その音楽的魅力の評価には結局繋がらない。


つまり常に聞き手は、堂々と自信に満ちたような音、同情を求めたり幼稚さを感じさせない演奏を聞きたがっている、演奏と年齢、ましてや社会的立場というのは全く関係しない。


年齢の高い人が熟練した表現になり、若者がフレッシュな印象になるというのはわかりやすく様にもなるのだろうが、実は別のテンションも存在したりする。

それは若い人が、はっきりとしたスタンスで自分の表現ができない、しようとしない、しなければならないとわかってないパターン。もちろん全ての若者がそうではない前提。


これは社会の中での立ち位置がもたらす、潜在的な弱者意識がもたらすものだと思います。

低年齢というだけで、自分の周りには年長者が圧倒的に多い。大学生であっても親の扶養のもとにあり、学舎でも教授はじめとした年長者との付き合いになる。

本当は若者らしいほとばしる情熱でもって、止められない青年の主張のようなエネルギーで演奏すれば良いのだが、お伺いをたてる立場だったり、敬語を使ったり気を遣ったりする機会が多いと、どうしても

「強く出られないリミッター」

みたいなものが、潜在的にかかるようにうつったりする。少し積極的に攻めても、直ぐにほころびをたしなめられたりしたら余計そうだろう。


王様の意識ではなく平民の、しかも立場の弱い民衆の意識が自然と宿ることによって、本当にもたなければならない演奏の魅力の原動エネルギーがもてなくなってしまう。


しかし聞き手にとってはこの演奏者の立場、その控え目なメンタリティはまるで関係のない話で、不必要なもの。


実は、必要なのは王様の意識だと思う。


「下々の者たちよ、我が声を聞き、一切逆らわずしたがうのだ」


そんな王様の演奏こそを、若かろうがなんだろうがやらなければならない。

それを受けとる下々の民衆が、心からの拍手と共に年貢を納めてくれるかどうかは訓示の内容によるのだろうが、いずれにせよ上意下達の演奏こそが求められていることは確かなのです。


沖縄県芸レッスン

posted by take at 17:31| 活動報告