2016年01月28日

生徒・師


ある大学のプロフェッサーが、

「学生がなかなか上手くならないんですよねー」

と落ち込んだ様子でつぶやいていた。


わかります。


「教育って難しい、本当に難しい」というのは、我々教師たちが話し合いながら、最後に結論として出るキング・オブ・常套句です。

“生徒を上手くしたい”。教師としての存在理由、存在価値を確固としたものにするためにも、多くの先生が思うことでしょう。

更に愛情が多目にわく人なら“上手くなって幸せになって欲しい”なんて気持ちも宿るわけで、教育に向かうエネルギー、その燃料として情熱と並んで溢れたなら、強くそのベクトルが生徒に向く。


問題は、ここら辺りにある矛盾です。


生徒は、とにかく自分の力で上手くならなければならない。先生の力でではなく。としたら、先生の情熱も愛情も必要ないとなる。それが必要なのは、逆に生徒の方。取り組みに対する情熱。音楽に対する愛情。

実際、上手くなった人は皆自分で上手くなっている。教師は、その道のりの途中に現れる一登場人物でしかない。素晴らしいといわれる教師のもとでまるで花開かない人いれば、何も教えてくれなかったり、冴えない教育内容の師のもとから名演奏家も生まれる。


そう、実は愛情があるから向き合い、愛情があるから悩み、愛情があるから研究するから、最後は素晴らしい師になる可能性はあるけれど、生徒は結局本人の資質で上手くなるかどうかが決まるのが現実。

酷で悲しい話だが、教師はこの現実を受け入れ、大変強い気持ちのひとつを諦めなければならない。つまり、無償の一方通行愛情でなくてはならない。

この矛盾に悩みつつも、

「じゃあ師は不要なんじゃないか?」

という問いには否という答えになる。


最近、技術の9割は教えるべきではないなあという考え方になってきました。残りの1割とは、小学生からであれ中学生からであれ初期の3・4年は、教えなくしてはさすがに無理ではということです。

しかし、音大受験モードに入るくらい(この頃からレッスン受け始めるのですが)から大学生になり、更にそのあと延々と続く学びの時間に関しては(割合と人生の時間の比率にも合致するが)、自分の表現欲求こそが技術を生むか、手にいれるための研究意欲を生むかでなくてはならない。教師として教えてしまうと、そのチャンスも意欲も奪うことになる。


僕は今、教えない、喋らないレッスンを目標に様々研究しているが、生徒の前に立つ意味合いとしては、

“示す人”

でありたいと思っています。ただ演奏を示すだけだと、価値ある発想なきまま、似てしまう可能性があるので、それ以外も示さなければならない時期にきています。

自分が自分から引っ張り出してきた音楽、それを楽器に投影し確認し、自分の歌として放つ、そんな必要不可欠なプロセス自体を示し、依存したり、無意味に信奉しないような世界を示さなくてはならない。

そして、そんな空気が蔓延した学舎空間をなんとかして創る。

教師とは、教える人ではなく、示す場所を創る人なのかもしれない。


N響、練習。川越へ。

posted by take at 23:46| 活動報告