16分音符の伴奏型がずっと続くその上で、雄弁なレガートのメロディーが流れる。当然旋律がその伴奏の上に乗っかって演奏するようにと考えるのが筋だろう。
しかし伴奏担当者(担当組)が「我々のテンポ感にびったり合わせろよ!」と、旋律の細かいアゴーギグを全く優先せず自分たちこそが主導でと我を通したなら、完全なインテンポにどんどん近づいていくだろうし、演奏全体としては淡白でつまらないものになっていく可能性が高い。
逆に、揺らぎまくる旋律に16分を辻褄合わせのように付けようとしたなら、ある程度以上のアゴーギグからは、なんとも気持ちの悪い不自然なものになっていくだろう。揺れ過ぎの電車や船に乗っているように酔ってしまう。
つまりお互いを聞き合うという当然の事だけでなく、「旋律だから」「伴奏だから」を超えた意識の相思相愛というたしなみが不可欠だ。
なぜたしなみと表現するかというと、それは「大人こそ」の所業だと思うから。こうなると、音楽家としてどうというよりも人としてどうか、つまり人間力の領域の話になる。
そんな大人たちの意識と実行の力が一体化した瞬間、全く簡単には到達しようのない、素晴らしい音の重なりが現れるのでしょう。
今よりももっと指揮者が封建的テイストだったあの時代、アマチュアオーケストラを前に、とある指揮者が叫んだそう。
「アンサンブルなんて生意気なこと言ってないで、全員が俺の棒に合わせればいいんだよ!!そうすれば合うんだから」
アンサンブルが生意気とは驚愕かつ新鮮な価値観だが、これを発する者こそが子供(もちろん悪い意味で)であることは明白だ。
当然指揮者とオーケストラとの間にもアンサンブルはある。しかし大人と子供でアンサンブルは不可能だ。
大人たちのアンサンブル能力とは、簡単な言葉として誰もが思いつくようなものではなく、かくも奥深い。
つまり人間として大人になるということは、深遠な世界へ向かう勇気こそが連れていく、そんな世界なのだろう。