我が推し、大谷翔平クンが25歳の時に語ったこと。
当然「野球を上手くなりたい」というのはありますが、その前にひとりの人間として、社会に対して信頼に足る人間でありたい。僕は本当に野球しかやってこなかってので、他の要素が抜けていたり、何か欠陥があったりということが多々あるはずです。野球ができるかどうかということは、その人が信頼できるかどうかとは関係がないですよね。僕は野球を通じて、そこを高めていくことが一番かなと考えています。
なんと素晴らしい考え。そしてそれが本心であろうことが明白な言葉の選ばれ方。
これを私たちのフィールドに置き換えると、本当に必要なことが見えてくる。
当然「楽器を上手くなりたい」というのはありますが、その前にひとりの人間として、社会に対して信頼に足る人間でありたい。僕は本当に楽器しかやってこなかってので、他の要素が抜けていたり、何か欠陥があったりということが多々あるはずです。楽器ができるかどうかということは、その人が信頼できるかどうかとは関係がないですよね。僕は楽器を通じて、そこを高めていくことが一番かなと考えています。
彼からは教わることだらけである。
2023年06月25日
社会に対して信頼に足る
posted by take at 09:11| 活動報告
2023年06月24日
誠実への進化、その価値
世の中には本当にいろんな人がいる。
しかしその全ての人に共通していることが確かにある。
僕が最近強く思うのは「全ての人が、自分に対しては誠実に接してほしいと思っている」ということだ。
他人同士に関してはは無関心な人も多いだろうが、こと自分に対して「不誠実に接してくれていい」なんて思っている人間はいないだろう。
どうぞ嘘をついてください。
どうぞ騙してください。
どうぞ軽くぞんざいに扱ってください。
どうぞ無視してくださって構いません。
そんな人いないと思う。
なのに自分は人にはそのようにする人のなんと多いことか。
不公平である。
そしてそんな人はそこのフィフティフィフティには関心がないか、不公平だと知ってても「仕方ない」とかなんなら「それでもいい」「そんなもんだ」とすら思っていたりする。
これは「階級社会」とか「能力主義」とか「勝ち組負け組」などといった、人類の歴史の途中の価値観とはまた違った、個人としての人間力、心の質の話。
結局自分の強欲を自己肯定したいというだけの話。
その身勝手さこそ、知的生命体になりきれていない、原始動物的未成熟さなのではないだろうか。
posted by take at 17:54| 活動報告
2023年06月23日
2023年06月22日
58になって
昨日58歳になりました。
たくさんのお祝いのメッセージ、心より感謝申し上げます。
50代も前半は「まだまだ」と上向きばかりで、しかし病気や様々それまでにない問題も起こり、それに対応しながら怒涛のように進んできました。
中頃から後半に入って、徐々に「60とその後」を意識し始め、そこへ向けての計画を始めたり、少しずつ整理したり。
同時にコミュニケーションの場では、言動も少し落ち着いた自覚もあります。若い世代に対して、「でしゃばってみっともなりたくない」という気持ちが更に大きくなってきたのです。
そして60まで2年となった今、還暦とその後を完全に視野に、真剣に、定めた計画の通りに進むべく慎重に確実に毎日を過ごさなければなりません。
今まで以上に周りの人を大切に思い、そして検査からの身体の状態の把握、不備に対しては予防と確実な治療を怠らず。
家のローンも終わりつつあり、そこから人生の終わりまでの計画も意識し始めました。
より計画的に、より確実に。
そして家人と2人、少しでも前向きで充実した日々が得られるように頑張ってまいります。
posted by take at 17:35| 活動報告
2023年06月21日
指揮という絶対
指揮をしていてつくづく思うことがある。
もしかしたらしたことがない人は、その現実に関しては「そこまででもないんじゃないか」と思うのではないかということ。
それは「合奏体というのは、本当に指揮をした通りにしか動かない」ということ。
つまり指揮の腕の動きと全く違うようなタイミングで合奏体が動くのは、ほぼ不可能。ほぼというのは、全員が完全に指揮を無視したならありうる。
僕もこの年まで一切指揮をしなければ「少しくらいは演奏家の方に優先権もあったりするのでは?」と思ったに違いない。
ただ演奏家というのも、完全に指揮者の点にだけ合わそうとしているのではなく、ある点から次の点へは自らの拍感やビートで進もうとはする。それが自然であればあるほど、音楽的な説得力が出てくるが、不自然であればアンサンブルが徐々に崩壊したり、気持ちの悪いアゴーギグで出来上がったりする。
結局、指揮者の頭の中の音楽が如何なるものかを完全に無視して進むことは極めて困難だし、その頭の中と腕の動きが合致してない棒だとこれまたややこし過ぎる結末がやってくることになる。
N響ほどの合奏体でも、過去何度かどうにもならないくらい酷い演奏しかできなかったことがある。猛者たちの自然かつ豊かな音楽的タイミングを崩されまくった結果の目も当てられない不幸だった。(もちろん二度目の共演は無い)
よって合奏体の前に立つ者、本当に責任を持って身体を動かさなければならないと、改めて身が引き締まる今日この頃なのです。
指揮をしていてつくづく思うことがある。
もしかしたらしたことがない人は、その現実に関しては「そこまででもないんじゃないか」と思うのではないかということ。
それは「合奏体というのは、本当に指揮をした通りにしか動かない」ということ。
つまり指揮の腕の動きと全く違うようなタイミングで合奏体が動くのは、ほぼ不可能。ほぼというのは、全員が完全に指揮を無視したならありうる。
僕もこの年まで一切指揮をしなければ「少しくらいは演奏家の方に優先権もあったりするのでは?」と思ったに違いない。
ただ演奏家というのも、完全に指揮者の点にだけ合わそうとしているのではなく、ある点から次の点へは自らの拍感やビートで進もうとはする。それが自然であればあるほど、音楽的な説得力が出てくるが、不自然であればアンサンブルが徐々に崩壊したり、気持ちの悪いアゴーギグで出来上がったりする。
結局、指揮者の頭の中の音楽が如何なるものかを完全に無視して進むことは極めて困難だし、その頭の中と腕の動きが合致してない棒だとこれまたややこし過ぎる結末がやってくることになる。
N響ほどの合奏体でも、過去何度かどうにもならないくらい酷い演奏しかできなかったことがある。猛者たちの自然かつ豊かな音楽的タイミングを崩されまくった結果の目も当てられない不幸だった。(もちろん二度目の共演は無い)
よって合奏体の前に立つ者、本当に責任を持って身体を動かさなければならないと、改めて身が引き締まる今日この頃なのです。
posted by take at 17:14| 活動報告