2023年05月11日
案ずるより
「案ずるより生む(産む)が易し」という言葉がありますね。
心配しているよりも実行してみたら意外と簡単なこと、という意味ですね。
自分の人生を振り返ってみると、確かにそういうことはたくさん思い当たります。
というかどんなに心配し、どんなに不安がっていても、生き抜けてきた今から振り返ると全ては乗り越えられてきたことだし、幸いにも大事に至ってなく、それどころか成功してきたこともたくさんある。
また「後悔とはしたことよりも、しなかったことによるものが強い」という価値観もある。
案ずるよりであるならば、悩んで悩んで判断や行動に移せなかったこと、また「遅きに失する」という言葉や「やってみたら、もっと早くやっとけばよかった」みたいなことも多い。
本当に
「案ずるより生むが易し」
「いつ生むの?今でしょ?」
である!
posted by take at 09:39| 活動報告
2023年05月10日
子供っぽい
家人がふと興味深いことを言った。
「子供っぽいって言ったら否定的なのに、少年の心を持っているはいい意味よね」
そうですね。
子供には子供ならではの良い部分とダメな部分がある。これは大人もそう。大人になったら問題がなくなるわけではなく、少年の心を失って変にスレてしまったり汚れてしまったり。実はどちらが優れているということでもない。
じゃあ子供っぽいってどういうことなんだろう?と考えはじめた。
考えが浅いと言うと子供に失礼だ。
それよりもまだ自分のアイデンティティや満足度がコントロールできないが故の
「ねえ、見て見て!聞いて聞いて!僕のこと(わたしのこと)わかってわかって!!」
とテンション高くはしゃぐようなことではないだろうか。そのような表現を求めるというか。
じゃあ大人っぽいというのがこの逆だとしたら「自分のアイデンティティは決して周りに強くアピールするのではなく、淡々黙々と示し周りの審判を仰ぐ」ということだろうか。
いずれにせよこの子供っぽさは、勉強や研究ができたり、本人がどんなに緊張しながら、どんなに気を遣いながら表現していても、周りからは違和感にうつるもの。
大人がやらないような幼稚さが突然現れたり、本人のテンションに差があれど情緒の種類が少なく感じられるのも特徴のひとつだろう。
posted by take at 12:24| 活動報告
2023年05月09日
隅々まで見つめる
人間の能力的に、自分の背中を見ることは困難だ。普通に目線を真っ直ぐ正面に向けていると、正面含め自分の姿のどの部分も全く見えない。
しかし他人からは全て見えている。自分では見られない後ろも、他人は簡単に見る事ができる。
だから服含め自分を覆う物全てと、見えてしまう体の部分は全て、見られても大丈夫なように清潔に整えなければならない。
自分には見えないから背中には虫食いの穴が開いていても平気、とはいかない。
演奏も同じ。
吹き始めたら、吹く事でいっぱいいっぱいになり、いろいろ聞こえなくなる。たとえば、音の最初は聞けているが処理のところは聞けてない。吹き始めてコンマ何秒か後から書こうとする‥‥
どれもダメだ。
なぜなら、他人にはその演奏の全てが聞こえているのだから。
私たちは出している音の全て、その隅々まで見つめ、聞こえ、理想を持って整えきらなくてはならない。
人間の能力的に、自分の背中を見ることは困難だ。普通に目線を真っ直ぐ正面に向けていると、正面含め自分の姿のどの部分も全く見えない。
しかし他人からは全て見えている。自分では見られない後ろも、他人は簡単に見る事ができる。
だから服含め自分を覆う物全てと、見えてしまう体の部分は全て、見られても大丈夫なように清潔に整えなければならない。
自分には見えないから背中には虫食いの穴が開いていても平気、とはいかない。
演奏も同じ。
吹き始めたら、吹く事でいっぱいいっぱいになり、いろいろ聞こえなくなる。たとえば、音の最初は聞けているが処理のところは聞けてない。吹き始めてコンマ何秒か後から書こうとする‥‥
どれもダメだ。
なぜなら、他人にはその演奏の全てが聞こえているのだから。
私たちは出している音の全て、その隅々まで見つめ、聞こえ、理想を持って整えきらなくてはならない。
posted by take at 14:45| 活動報告
2023年05月08日
日本の席の譲られ方
確かに次の駅で降りる人の立場に立ってみれば、譲られて座って次の駅で立って降りてしまうのでは、譲ってくれた人に申し訳ない気がする。
それでも「次で降りるんですけど、ありがとうございます」と言って座ってしまうのも手だ。そうすれば、降りた後、再び譲った人が座る流れになりやすい。
「私は席を譲られるほど年寄りに見えるのか?」という経験、特にその一回目が大層ショックだろうことはとてもわかる。
しかしそんな日は、自分が選ぶタイミングなんて全く存在しないまま、ある日突然やってくるのでしょう。
そんな瞬間決してたじろかず、まずは「ありがとうございます」の一言が出てくるかどうかだ。
僕は必ずそうしよう。決して嫌な顔なんかせず座らせてもらおう。
少し時間をおいてショックに悲しくなりながらも、ゆっくりその運命を受け入れることをここに誓います。
確かに次の駅で降りる人の立場に立ってみれば、譲られて座って次の駅で立って降りてしまうのでは、譲ってくれた人に申し訳ない気がする。
それでも「次で降りるんですけど、ありがとうございます」と言って座ってしまうのも手だ。そうすれば、降りた後、再び譲った人が座る流れになりやすい。
「私は席を譲られるほど年寄りに見えるのか?」という経験、特にその一回目が大層ショックだろうことはとてもわかる。
しかしそんな日は、自分が選ぶタイミングなんて全く存在しないまま、ある日突然やってくるのでしょう。
そんな瞬間決してたじろかず、まずは「ありがとうございます」の一言が出てくるかどうかだ。
僕は必ずそうしよう。決して嫌な顔なんかせず座らせてもらおう。
少し時間をおいてショックに悲しくなりながらも、ゆっくりその運命を受け入れることをここに誓います。
posted by take at 21:16| 活動報告
2023年05月07日
日本の席の譲り方
日本の場合電車内で席を譲ろうとすると結構な確率で
「大丈夫です、次降りますから」
と言われてしまう。親切心が空中に消えて無くなってしまうように。
ので、日本には日本の「席の譲り方」がある。
先ず譲ろうとしている方の方を見て、目線が合うタイミングを作ろうとする。そうしないと、席を立ったときその方が気づかず、不本意に別の人が座ってしまう場合が出てきてしまうから。
そして合ったなら、少しだけ頷くようにしながら黙って席を立ち、そのままその場からそれなりに離れてしまう。
つまり相手の「結構です」を言わせないように、立ち去るようなテイストで。
その後座るか座らないかはその方次第。
たとえ座らなかったとしても、譲ろうとしたこちらの親切心は成立するし、他の人が座ってしまったとしても、それはそれで自分と座らなかった人双方が選んだ結果だから、諦めればいいだけ。
どうでしょうか?
posted by take at 16:44| 活動報告