演奏というのは、様々なやり口で表現できたりする。そのどれが正解でどれは不正解というものではないということは心の片隅ではっきりとわかっていながらも、なぜだか正解を探してしまう。あくまでも自分にとってでしかないのだが、その正解こそが最も良いものではないかと、どうしても思いたいようだ。
ただ最近の僕は「聴衆が一番聞きたがっている表現と、演奏家が取り組みの柱にすることは合致していた方がいい」という観点から
「様になっている」
ことこそが最も価値があり、故にその曲、その場面の様を強く感じ、それこそをやろうとすることが、様々なタイプや状況の聴衆からその多くを喜びへと導ける取り組みなのでは、と思うようになってきた。
少し観点を変える。
演奏家にも個性は求めたいし求められる。皆同じようはやはりつまらない。だから自分らしさがまさに様になっているというのも大切なことだ。
同時に「何を演じてもキ○○クだ」じゃないが「どんなものを演奏してもあの人だ」は、良き面と残念な面の両面を持っている。
演者のやり口を語っているものだが、その型から抜けられないと、あまたある素材を同じ表情で表現してしまうことになる。
これは演者のキャラとしては様になっているのかもしれないが、性格や作品、場面の個性としては様になってないとなる。
そう考えると、型を意識し過ぎそこを研究して成功へと進もうとするのは、出口のない迷宮をさまようようなものだともいえる。
これはまさしく僕自身の話。
トロンボーンを吹いてもだし、特に指揮に関してだが、理想の型を探し悩む癖がある。
その呪縛から解き放たれ、表現の様を探すことこそ本当に進むべき道かと。
自分の型で成功しようとするという、ある意味のエゴから脱却することだとも言えるのでしょう。