2023年04月10日

大谷翔平的集約


メディアでは毎日のように「大谷翔平研究」が繰り広げられている。稀代の能力、成功者の活躍の真理には僕も大いに興味があり、ついつい見てしまう。

大きな柱としては二つかなと。そのひとつはやはり

「徹底された集約力」

人として生を受けた以上、あらゆる喜びを享受したいと思うのが普通の道程。途中で自らの得意不得意を理解していき、やることやらないことが仕分けできていったとしても、24時間のプログラムはいくつかの異なる喜びを目指す取り組みで成り立つ。

しかし彼のそれは、食事や睡眠といった「命と快楽」のためのようなものですら、ベースボールのためのプログラムになっている。そのためだったら、どんなに魅力的な誘惑にも軽く勝ててしまうほどの徹底っぷりだ。

話を聞いて「自分には無理」と本気で思う人が大半だろう。それくらい彼以外の人にはストイック過ぎるとしか思えない内容。

彼にとっては趣味のようなものなのだろうが‥‥


なぜそうなったかは、若い頃から周りと比べ抜きん出た能力が実感でき、それが「どこまで伸びるのか」ということを体現したいという向上心と興味関心の存在に突き動かされたからに他ならない。

その「見えざる高さ」を目指したくなった人が、多くの本を読み、話を聞き、考え、そのつど出す結論から知的にプログラミングしながら、徹底的に現実的に進みたくなったなら、やることは


「集約すること」


それに尽きるのでしょう。

彼以外の人類は、まだ集約しろが山のようにあることを、まざまざと思い知らされている。

posted by take at 09:52| 活動報告

2023年04月09日

自分がやりたいこと


世の中には2種類の人がいる。


自分がやりたいことが、目の前にいる人のやって欲しいことと合致している比率が高い人



他人が望むことにそもそも関心が無いため、自分のやりたいことが結果独りよがりな人


これはわがままとか社交性の有無とは合致しない。人の良さそうな人でもその我が道に周りが共感できないことは多々あるし、付き合いにくそうな人でもやっていることに賛同できることもある。

posted by take at 08:11| 活動報告

2023年04月08日

ハイテクスタート


あまりにも簡単そうに演奏されているハイテクニックは、超絶技巧に聞こえないことがある。そこまでのことができる人というのは、器用でありながら、それ用の鍛錬をしっかり積んだのだろうと、誰もが思っているはず。そして「自分はある程度でいいや」と、そこまで目指さない演奏家も多いだろう。

特に日本人は欧米の人よりも、超絶技巧的なものを目指さない空気感がある気がします。皆、ハイテクよりしっとりと深い音楽性でと、超絶技巧を過小評価しているのでは?と思うこともある。


最近僕は、若い人の理想的な成長のために、少なからずハイテクニックをトレーニングに取り込んでいくことをやろうと思っています。つまり、練習としてのハイテクニック。

ゆっくりと丁寧にというよりは、速く幅広く跳んで。

そのことで各々が抱えている問題、癖の克服に自動的に繋がればいいなと思っているのです。

ハイテクニックはある程度吹けるようになってから‥ではなく、のっけから当たり前のように取り組む。疑問を持つよりも前に、当たり前にしてしまいたい。


先ずは自分からですね。頑張ります!

posted by take at 17:19| 活動報告

2023年04月07日

体調を保つための演奏


12才からほとんど毎日のように楽器を吹いてきた僕の身体は、息の出し入れと唇周りを中心とした全身への細かい振動ありきで人生を送ってきた。

最近思うのは、その振動や呼吸をやめるだけではなく、心地よい状態があって、初めて健康が保てているのかもしれないと。


この一ヶ月ほど、長年キープしてきたセッティングと違う状態で吹いていました。

いつものようにそれなりのタイミングで慣れるかと思ったら慣れない。慣れないどころか、体調までイマイチになってきた。

もちろんセッティングは戻してみたのだが、そこから「細かいことを気にしなくてよい心地よい日常の継続」まで戻るのに時間がかかっている。

それに伴い体調もなかなか戻らない。

つまり、長年のいい感じのペースが戻って初めてノーマルな体調なのかと。

これは前向きに進めるかどうかにも影響がある。

長年やってきたことを、自ら否定してしまわないことですね。

posted by take at 17:50| 活動報告

2023年04月06日

型からの脱却


演奏というのは、様々なやり口で表現できたりする。そのどれが正解でどれは不正解というものではないということは心の片隅ではっきりとわかっていながらも、なぜだか正解を探してしまう。あくまでも自分にとってでしかないのだが、その正解こそが最も良いものではないかと、どうしても思いたいようだ。

ただ最近の僕は「聴衆が一番聞きたがっている表現と、演奏家が取り組みの柱にすることは合致していた方がいい」という観点から

「様になっている」

ことこそが最も価値があり、故にその曲、その場面の様を強く感じ、それこそをやろうとすることが、様々なタイプや状況の聴衆からその多くを喜びへと導ける取り組みなのでは、と思うようになってきた。


少し観点を変える。

演奏家にも個性は求めたいし求められる。皆同じようはやはりつまらない。だから自分らしさがまさに様になっているというのも大切なことだ。

同時に「何を演じてもキ○○クだ」じゃないが「どんなものを演奏してもあの人だ」は、良き面と残念な面の両面を持っている。

演者のやり口を語っているものだが、その型から抜けられないと、あまたある素材を同じ表情で表現してしまうことになる。

これは演者のキャラとしては様になっているのかもしれないが、性格や作品、場面の個性としては様になってないとなる。

そう考えると、型を意識し過ぎそこを研究して成功へと進もうとするのは、出口のない迷宮をさまようようなものだともいえる。

これはまさしく僕自身の話。

トロンボーンを吹いてもだし、特に指揮に関してだが、理想の型を探し悩む癖がある。

その呪縛から解き放たれ、表現の様を探すことこそ本当に進むべき道かと。

自分の型で成功しようとするという、ある意味のエゴから脱却することだとも言えるのでしょう。

posted by take at 10:47| 活動報告