WBCを終えたダルビッシュ有が、本拠地のアリゾナに帰り
「ひとりでゆっくりする時間でまずホッとした。とにかく今は普通の日常に戻った。全てがリラックスしている感じ」
と言っている。
この二ヶ月間、極まったような非日常だっただろうし、彼の発言から分かるように自発的だったにしても、周りのために、若手のために、日本のこれからのためにと気を遣いながら、頭も身体もそれはそれはアクティブに活動していただろう。
いろんな報道や彼の言葉、彼を語る言葉で、とても頑張ったんだろうことはよくわかる。彼の立場を想像してみると、本当にここにエネルギーを注ぎ、やれること、やるべきだと思うことをやり切ったのだろうことが見えてくる。それは普段の野球活動よりはるかに幅広いことだっただろうから、そりゃくったくただろう。
そしてその分、彼は各方面からとても称えられている。イチローから我が家の家人にまで。
同時に、戻った日常が安堵の場所であるということにとても共感するし、人として憧れるべきことだよなあとも思う。
全てのイベントは、エキサイティングであればあるほど嵐のように過ぎ去る。そしてそれが終わり、達成感と共に家に帰り、人生の大半の時間とも言えるいつものペース、日常がホッとできリラックスする場所であることの幸せ。
ここにも人生の真理がひとつ存在している。
オンとオフとよく言うが、人はずっとは走れないし、でも走らない人生は怠惰だし。刺激と共にアクティブに走り、きちんと帰り、そこで穏やかさという幸せを感じる。
ルンバですら走った後は帰宅してますからね。
2023年03月26日
普通の日常、その価値
posted by take at 08:45| 活動報告
2023年03月25日
未来の教育 その4
では「とにかく怒らない、追い込まない」として、それで全てが解決するのかと言えばそんな単純な話ではない。
これはあくまでも不必要なことなだけで、必要なことというのは他にある。
不安を持たずに潜在能力を発揮し切ってもらうために必要なこと。
よく「自己肯定感」という成功体験からの産物の重要性が語られるが、これを生み出すのは、とにかく「(生徒自身の)手応えに繋がるシステム」と「定期的な評価を得る場」、つまり日常追われることと、評価が得られる恒常的スパンで訪れる目標点(本番)。
逆説的に考えるとわかりやすい。
日常がノープランノーシステム、つまりやるべきプログラムがはっきりしてなかったりぼやけたりしていると、成長という変化はまず望めなくなる。手応えのある内容はもちろん、多少追われるくらいの方が良いのではと考えています。
そしてそれを発表し評価を得ることで、やったことの価値を確認する機会が定期的にあること。
それらの積み重ねで「自己肯定感」は生まれてくる気がするのです。
怒りもしないが、じゃあ褒めればいいのかというこれまた単純な話ではない。評価というのは真っ当であればあるほど良い。
ほとんどの問題点は簡単には解決しないため繰り返される。それはそれで「問題だ」と指摘されるべきだし、幸いにもクリアできてたりそれ以上に素晴らしいことが発揮できていたなら、そこは具体的に称えられるべき。
そうやって、成功体験と問題認識体験の両方が的確に訪れることで、自分で自分を変えていく筋力がついていくのだと思います。
未来の教育とは、そんなプログラム、そんなシステム、そして明るく前向きな気が流れる人間空間作りという、難易度は決して低くないが、奥深くもやり甲斐のある理想教であるべきでしょう。
では「とにかく怒らない、追い込まない」として、それで全てが解決するのかと言えばそんな単純な話ではない。
これはあくまでも不必要なことなだけで、必要なことというのは他にある。
不安を持たずに潜在能力を発揮し切ってもらうために必要なこと。
よく「自己肯定感」という成功体験からの産物の重要性が語られるが、これを生み出すのは、とにかく「(生徒自身の)手応えに繋がるシステム」と「定期的な評価を得る場」、つまり日常追われることと、評価が得られる恒常的スパンで訪れる目標点(本番)。
逆説的に考えるとわかりやすい。
日常がノープランノーシステム、つまりやるべきプログラムがはっきりしてなかったりぼやけたりしていると、成長という変化はまず望めなくなる。手応えのある内容はもちろん、多少追われるくらいの方が良いのではと考えています。
そしてそれを発表し評価を得ることで、やったことの価値を確認する機会が定期的にあること。
それらの積み重ねで「自己肯定感」は生まれてくる気がするのです。
怒りもしないが、じゃあ褒めればいいのかというこれまた単純な話ではない。評価というのは真っ当であればあるほど良い。
ほとんどの問題点は簡単には解決しないため繰り返される。それはそれで「問題だ」と指摘されるべきだし、幸いにもクリアできてたりそれ以上に素晴らしいことが発揮できていたなら、そこは具体的に称えられるべき。
そうやって、成功体験と問題認識体験の両方が的確に訪れることで、自分で自分を変えていく筋力がついていくのだと思います。
未来の教育とは、そんなプログラム、そんなシステム、そして明るく前向きな気が流れる人間空間作りという、難易度は決して低くないが、奥深くもやり甲斐のある理想教であるべきでしょう。
posted by take at 13:09| 活動報告
2023年03月24日
未来の教育 その3
全ての生徒が同じレベルにいないとして、では優秀な生徒だけが得をするように選別するというのは、全くもって愚の骨頂だ。
大きく伸びるのは、全ての生徒に訪れるべきだ。
ありがちなのは、最初からセンス良く実力が高く映る生徒は更によく伸び、そうでない生徒はなかなか伸びないというもの。
しかしこれでは教育としては失敗だろう。少なくとも未来の教育というのは、そんなレベルの低さではダメだと思う。
「どの位置にいても常にどんどん右肩上がりで伸びていける」
そんな教育でなければならないのだと思う。
そのために必要なことは「自信を失わないこと」「常に最良の実力が出せること」。つまり「自信を失わせないこと」「最良の実力を出してもらうこと」。
そんな教育ができること。
そんな教育ができるために不必要なことはやらないこと。
人は萎縮からは伸びない。
それがたとえ教師からは勘違いに見えたとしても、自信と喜びに溢れている人の方が「もっともっと」と昇っていくのだ。
全ての生徒が同じレベルにいないとして、では優秀な生徒だけが得をするように選別するというのは、全くもって愚の骨頂だ。
大きく伸びるのは、全ての生徒に訪れるべきだ。
ありがちなのは、最初からセンス良く実力が高く映る生徒は更によく伸び、そうでない生徒はなかなか伸びないというもの。
しかしこれでは教育としては失敗だろう。少なくとも未来の教育というのは、そんなレベルの低さではダメだと思う。
「どの位置にいても常にどんどん右肩上がりで伸びていける」
そんな教育でなければならないのだと思う。
そのために必要なことは「自信を失わないこと」「常に最良の実力が出せること」。つまり「自信を失わせないこと」「最良の実力を出してもらうこと」。
そんな教育ができること。
そんな教育ができるために不必要なことはやらないこと。
人は萎縮からは伸びない。
それがたとえ教師からは勘違いに見えたとしても、自信と喜びに溢れている人の方が「もっともっと」と昇っていくのだ。
posted by take at 09:42| 活動報告
2023年03月23日
未来の教育 その2
「怒らない教育」という考えよりも「常に成果に繋がる教育」と考えた方が、全てにおいて正しい方向を向くでしょう。
まず根本的に
「出来ないから学びに来ている」
「全ての生徒が同じ最高にはならない」
というふたつの現実を強く理解すること。全ての生徒はレベルが異なるのが現実。
この理解が出来ていないと、教師は怒りはじめる。自分の中のボーダーまで達してないのない生徒に対して、怒って追い込むことにより奮起を促している風だが、実は根本的に信頼していないことを怒りにして表現しているだけ。
生徒の実力は生徒自身の持ちもの。先生のものではない。
実は生徒は怒られると萎縮する確率の方が圧倒的に高く、それが繰り返されると、どんな人でも慢性自信喪失状態になる。
そうなるとどうやっても
「その時の状態(レベル)における最高のパフォーマンスはできなくなる」
ということの正確な理解。そこにポイントがあると思うのです
その3へ続く。
「怒らない教育」という考えよりも「常に成果に繋がる教育」と考えた方が、全てにおいて正しい方向を向くでしょう。
まず根本的に
「出来ないから学びに来ている」
「全ての生徒が同じ最高にはならない」
というふたつの現実を強く理解すること。全ての生徒はレベルが異なるのが現実。
この理解が出来ていないと、教師は怒りはじめる。自分の中のボーダーまで達してないのない生徒に対して、怒って追い込むことにより奮起を促している風だが、実は根本的に信頼していないことを怒りにして表現しているだけ。
生徒の実力は生徒自身の持ちもの。先生のものではない。
実は生徒は怒られると萎縮する確率の方が圧倒的に高く、それが繰り返されると、どんな人でも慢性自信喪失状態になる。
そうなるとどうやっても
「その時の状態(レベル)における最高のパフォーマンスはできなくなる」
ということの正確な理解。そこにポイントがあると思うのです
その3へ続く。
posted by take at 09:38| 活動報告
2023年03月22日
未来の教育
教育(レッスン)の流れを過去から現代へと見つめてみると、投げる内容や全体のシステムの洗練がはっきりと見てとれる。
人間にとってより現実的に成果をあげられるものへと変化しているのは、どの分野でも確かにそう。
たとえば弦楽器のように楽器そのものは変わっていないのに、年月と共に音や技術が優れていくのは、どう考えてもトレーニングの内容によるところだろうと、誰しもが簡単に辿り着ける。
同時に、取り組むとき(音楽なら演奏するとき)その際のメンタルのあり方についての理念をはっきり持っている教育者は、過去のやり口とは根本的に違う、深い深い観念のもと生徒と向き合っているのではないかと思うし、そもそも未来にはそれこそが必要なのではないかと考えます。
私たちは、技量の低い人間が自信に溢れている状態を否定的に見てしまう。「なんであんなにできないのに堂々としている?自分のことがわかってないのか?」と。まるで自信を持っていいレベルに対する免許があるように、ボーダーを感じながら責めてしまう。そのレベルまで達してないのなら、自信を持たずに自己否定の状態でいろと言わんばかり。
しかしとても重要なことを見落としがち。パフォーマンスをする場合自信の無さは邪魔にしかならない。不安や自己否定が心の中にあると、大抵失敗に繋がるし質の高いパフォーマンスは望めない。
これは実は全てのレベルの人においてそう。逆説的に言うと、どんな技量レベルの人でも
「自信がある状態でパフォーマンスに望まないと、そのとき出来得る成功には繋がらない」
となる。それはたとえ初心者状態であっても。
よくある話だが、まだ初期段階の人が伸び伸び取り組んでいるのを評して「まだ本当の怖さを知らないからねえ」と揶揄することがあるが、実はこの状態は間違いではないのだと思う。
「怖さを知ったらもっとナーバスでセンシティブになるでしょ」と、まるで知らないから実力以上のことが出来ているように評価しようとするが、そうではなくて、そのときできることを最大限やれるメンタルとしては、全く正しいのではないだろうか。
その2に続きます。
posted by take at 19:52| 活動報告