2023年03月31日

新しい演奏こそ


「今日もホンマ素晴らしい1日だったなあ」

僕がそう思えるとしたら、どんなことがあったらだろう。

もちろん幸せや充実に繋がることは、多岐に渡りいろいろある(美味しいものが食べられた、会話が弾んだ、生徒が上手くなった、ドラマが面白かった、酒が美味い‥‥)のだが、僕の場合はやはり

「新しい演奏ができたとき」だと思う。

新しい音(もちろん良い方向で)が出たとき。

新しい技術の克服があったとき。

新しい表現ができたとき。

いろんな素晴らしさを享受しながらも、それに勝る素晴らしいはないくらい、僕にとっては未来へ向けて希望に溢れるアイテムだから。

posted by take at 12:02| 活動報告

2023年03月30日

才能の生まれ方


生徒に内在している能力。どんなものがどれくらいあるのかは誰にもわからない。

本人にはそれこそわからないだろう。周りから見えやすいような幸運なパターンもあるだろうが、大半は目に見えない。どれくらいなんて話になると、本当に誰にもわからない。

しかし、そんな目に見えない誰にもわからない力を大いに使ってもらうように導ければ、それこそが教師の立派なポテンシャルなのだろう。

そして生徒たちが、そんな隠れているポテンシャルをガッツリ利用できるようになれば、その能力はいずれ「才能」になる得る。

自由にやらせてくれる親、決して反対しない親含め、周りのスタンスひとつひとつも、個人の才能を生むアプローチに繋がっている。

逆に言えば、才能へと昇華するくらいの能力を周りで潰してしまうこともあるだろう。というか、思った以上に多くそうなってしまっているのかもしれない。

私たちが自分にも周りにも求める「才能」

それはそうやって本人と周りのアプローチで作られていった、後天的な結果なのかもしれない。

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2023年03月29日

足腰大事


讃岐うどんの大将が

「このコシはやっぱり足踏みが生み出します。讃岐のうまさはコレ!足踏みです」

と力説している。

それを聞いたマツコが、美味しそうにざると釜揚げをたいらげながら遠い目をし始める。美味しさを身体中で満喫しながら、ある瞬間疑問も湧いてきたよう。


「やっぱり違うわね、コシ。こっち(東京)にも美味しいのあるけど‥‥なぜか違うわね。何が違うのかしら。足の構造かしら」


んなアホな。

posted by take at 08:51| 活動報告

2023年03月28日

最後は合致


ひとりでやることなら自分のやりたいようにやればいい。

しかしそこに携わる人が増えれば増えるほど、最後の最後は「各々の最終的希望の合致」というのが、最も素晴らしい結果に繋がる。

最終的希望というのは、他人の希望に合わせたものを自分の希望にするということではなく、自分の本音の領域にいる本当の希望ということ。

特に仕切る人には、それを目指す感覚がある方がいい。


たとえば僕の場合、アマチュアオーケストラの指揮と指導という立場がある。

最近特に意識して探しているのが、「アマチュアオーケストラを聴きにくる人が本当に聴きたいのはどんな演奏か」というもの。もちろんいろんな立場の人がいて、開演前はばらけている可能性は高い。家族友人、自分もアマオケの演奏家、愛好家、なんとなく聴きにきた、何かしら比べるためにきた、初めて聴きにきた、自分の意思で、人に連れてこられた等々。

しかし演奏次第では、この多様な人たちの大半を満足させることができるはず。それはどんな演奏か。上手ければいいのか。下手でも情熱的であればいいのか。凄く下手でも、本当に満足できるのか‥‥

そんな聞き手の本音領域にも、必ず共通の希望はあるはず。


そしてアマチュアオーケストラの団員の皆さんの希望。これまた技量や取り組みが人によって色々だったりするので「求めていることは人によって違う」なんてこともよく言われる。それでも最大公約数的に昇華していけば、それこそ大きなエナジーとして満足感に繋がる可能性は高い。


そして前に立つ自分の希望。

以前は僕なりに思うことがあり、演奏が整っていればいるほど団員の皆さんの喜びに繋がるだろうと信じていて、そのことが尖っていたように思う。

しかしあるとき気づいたのは、前に立っていればわかる整然への変化も団員の皆さんには実感がなかったり、雰囲気によっては窮屈に感じていそうだということ。そうなれば団員の皆さんの一番の希望ではないということになる。

指揮者の希望に団員が合わせているうちはまだまだなのだろうし、逆に団員の雑多さに指揮者が合わせたり、見切ったように諦めることで迎合しようとしたりというのも違う。

そもそもかつては、聴きにくる人の希望というのを真剣に考察したことはなかった。


今は三位一体というか、三希望一体ということをよく考える。最後は、そここそが同じになること。

聴衆の一番聴きたいものを演奏できる。それに合わせるという意味ではなく、本音としてそれが団員や僕の一番やりたいことそのものであること。団員の皆さんが欲している練習の内容と僕のやりたい練習内容が同じであること。

全てを測るバロメーターは笑顔だろう。


WBCのあらゆる総括を見ながら、栗山監督の目的や希望と選手たちのそれ、そして応援した国民の希望に全くズレがなく一体化していることを感じ、成果を上げ切るための条件の理想がそこに見えた気がするのです。

posted by take at 07:12| 活動報告

2023年03月27日

怒りという罪


もしかしたら未来においては、「怒り」というのは、犯罪と認定されるほどの罪悪となっていくのかもしれない。

教育の現場では既に疎外の空気感に包まれているが、それでも子供の躾はじめ「怒るときには怒らなければならない」という価値観は純然とある。

自分たちは怒られできたおかげでまともな方向へ成長できた実感が強いし、未熟な存在がダメなことをしたときにもし怒らなかったら、それはほったらかしにし結果容認したことになり、そのせいでそれを続けてしまう大人になるのではという強迫観念は強い。

よって家庭と教育現場で押し付けあってきたような「叱責による教育」は、やはり必要だと。

しかしどうだろう。

「怒りの感情からは得るものが少ないどころか失うことが多い」という考察の元、怒りを抑える世代が大人になりつつある現代。そのうち、そんな世代に育てられた「怒られたことがない人たち」で社会は回っていくことになる。

僕自身、自分と相当違うであろうそういう世代の人たちに不安がないと言えば嘘になるが、もしかしたら彼らは我々以上に怒りに対する嫌悪感が強く、よって自分からはその感情が湧かないという人になっていくのではないだろうか。

自然と押さえ込まれていくように進化する。もしそうだとしたらかなり未知の世界であり、進化というより、凄い変化と言った方が正しいのだろう。

そうなったとき、もう怒りそのものは、原始的な人類が持っていた過去の感情であり、それ自体罪でしかなく、困ったことやまずいことが起こった場合も、それに変わる感情で相対し解決していくみたいな世界になるのかもしれない。

怒りこそが戦争や殺人の種であることは明白で、それを無くしていくことが人類の目標なら、平和な世界からは怒りは排除されるのかもしれない。

posted by take at 17:11| 活動報告