2022年12月31日

今年もお世話になりました


このブログを読んでくださった皆さん。今年一年もありがとうございました。

世界の情勢としては、残念な話が多かったし、結局コロナも三年目も大変でした。

来年はその反動で、全てにおいて良きことが訪れる年になることを願っています。

吉川家としては、来年は大きな変化がある年になります。家自体に大きな変化が。そのことで生活内容も少なからず新しいパターンが加わってくると思っています。

それを楽しみにしながら、来年も進んでいこうと思っています。

このブログも続いていきます。

是非よろしくお願い致します。

それでは皆様、良いお年を!!

posted by take at 17:04| 活動報告

2022年12月30日

‥‥不便だなあ


京急の品川駅は、いよいよ改築前の店仕舞いテイストに入っている。ホームの立ち食いそばもミニコンビニもたたんでしまった。

そんくらい不便じゃないだろうと思っていたのだが‥

コンビニはともかく、立ち食いそばは結局不便!そんなにしょっちゅう食べてたわけでもないのですが。

自分の行動パターンの動線、その大半の途中にこの店があったから、計画的にさっと食べられ、味にも不満なくというのは、本当ありがたかったんだなあと。

安心感もあった。時間がタイト、お腹も空く、じゃああそこでいい!と。


代替になる店やパターンが無いのは残念。結局選んでなかったというのは、不便だったり美味しくなかったりと理由がはっきりしている。

数年経つと駅は大きく変わり、パターンも全く変わるんだと思う。

ただどうなるにせよ、自分にとっての安心かつ勝手のいい店は、やはり設定されていて欲しい。

posted by take at 16:57| 活動報告

2022年12月29日

ダヴィッドとテレマン


結局、理想的にちゃんと吹けるかどうか、それをはかるのにわかりやすいパッセージは、ダヴィッドの一楽章のいくつかのパッセージ、そしてテレマンのコンチェルト(クァルテット)の最初のアレグロに集約されているなと感じています。

結局、これらが見事に吹けるかどうか。

なぜ「結局」かというと、大学時代にはもう向き合わざるを得ないものとして存在しており、その後も何度か吹くことになってきたものとして、ずっと人生を貫くようにスタンダードとしてあり続けているから。。

もちろん、その後登場した多くの難しいパッセージはあるにはある。しかし、タンギングやフレキシビリティーの課題として、これらが最も高き難易度として世界中に存在しているのだと思う。

加齢により吹けなくなってきたのではなく、結局最初から今までちゃんとは吹けてこなかったものなのでは?と考えるようになり、それが自分が最後に克服すべきものではと意識したとき、最後はダヴィッドとテレマンが立ちはだかっている。

頭がようやくそこに辿り着けたのかもしれないが、あとは諦めない勇気と、正しい奏法にたどり着く聡明な道を歩けるかどうか。

posted by take at 13:53| 活動報告

2022年12月28日

本当にできてないこと


50代後半は伸び盛り

を目標に今年一年もやってきたが、同時にプレッシャーに感じるのも違うなと。


更に最近思うのは、

「本当にできてないことに気づくなら、そろそろラストタイミングだな」

ということ。

自分としては「スタイル」と言いたいことでも、本当の理想からすると「癖」と言えることははっきりとある。

問題は、意外にそれに気づけていないこと。そしてそれは「結局ずっとできてないこと」。

これに気づけるタイミングとしてはそろそろかなと。

これより年齢を重ねると気がついても直せないだけではなく、そもそも気づけないのでは?と。

そう考えると、身体の衰えよりも、頭の士気が低下することの方が100倍恐ろしいとも思う。

泣き言という意味ではなく、来年に向けてのやる気として、このことを強く意識したい。

posted by take at 11:20| 活動報告

2022年12月27日

イエスマン


「イエスマン」とはとても怖い言葉に感じる。

本質的にそうあってはならないのに、多かれ少なかれ相手にそう望みがちだという点で、麻薬のような癖と常習性すらあるのではと。

相手に望むのも問題だが、そうした方が良いと表現することでどんどん自分を失っていくというのもあまりに怖い。


生徒に対しても

個性こそ本当の価値、調和に能力が埋没してしまわないようにと願うと、とにかく「イエスマンではダメ」「イエスマンを望んではダメ」と考える。

しかし気がつくと一方的だったり、画一的なアプローチになってしまう理由のひとつに、イエスマンの逆が「反抗的」と考えてしまう部分もあるのだと思う。(もちろんそれ以外の理由はある)

反抗されるのは嫌だから礼儀を強調したり、とにかく正解(とこちらが思っている)ことを言い、言い返せない、思い返せないようにしたり。


ただ、より正確に考えたい。

「イエスマン」の反対は「ノーマン」や「反抗する」ではない。そもそも礼儀というのも「イエスノー」とは関係ない。


多様化、そして個性。

個の魅力を認め求める。若き個人たちに素直で率直な表現を求め、それを称え、自分の思いと異なっていても本当に否定すべきかはよく考える。

そもそも冒険とも言えるエネルギーが生み出す新しさは、大いに歓迎する。

そういう意味で、自分こそが彼らのイエスマンになるべきだとも思う。

posted by take at 18:04| 活動報告