2022年10月26日

五感の差異


視覚から入る情報は8割を超え、聴覚からは1割に満たない。

この現実は、音楽をやってきた僕にはかなり特別な知識となり、新しい考え方を導き始めている。

もちろん五感のあれこれは、そのどれかに集中することでこれらの数値は変わってくるだろう。しかし目を開けて鑑賞している限り、どんなに音楽に集中していてもいくらかは視覚からの情報に持っていかれているのだと思う。

昨今はCDのように音だけで鑑賞するのではなく、映像付きの動画を見ることが増えた。その方が演奏家の動きもわかり、より理解が増す気がしていたが、もしかしたら演奏を聴くことの情報量は少し目減りしているのかもしれない。

映画なんかも映像と音楽を同時に受け取るが、やはり圧倒的に映像からであり、音楽は「その後ろで鳴っている」という印象。映像の印象を膨らますことはあっても、音楽の隅々までを聞くことはまずない。もし真剣に音楽を聴き始めたら、映像はぼやけてしまいその内容を理解できるほど見えることはなくなるだろう。


問題は、私たちが演奏家として、音を仕立てることに最善の策がとれているかどうか。もしかしたら、かなり無駄と共に進んでいるのかもしれないと思い始めていることだ。

百聞は一見にしかず

「何度も聞くより一度実際に自分の目で見る方が勝る」というこの言葉に、なんの疑問も持たないできたが、考えてみたら

「見ることは聞くことの邪魔をする、覆いかぶさり薄めてしまう、聞こえなくしてしまう」

ともとれるのだ。

posted by take at 18:23| 活動報告

2022年10月25日

何をどれくらい聞いているのか その2


以下のような常識がある。

「たとえば音を聞くことから得られる情報量が8000ビット/秒であるのに対し、目でものを見ることは43000ビット/秒と、実に聴覚の600倍近い情報が得られます。すなわちヒトが外界から得られる情報の80パーセントを目が担っているのです」


つまり私たちが楽器を練習するとき、聞くべき音、集中すべき演奏に対し、目で見ている景色や楽譜に持っていかれる神経が圧倒的に多いということ。

それを自分の演奏を聴くことに全て利用できれば、録音ギャップはじめ、あらゆることが大きく変わってくるのではないかと思います。

楽器を吹くことと自分の音を聴くことのふたつにのみ、自分の全ての神経を使うということです。

posted by take at 16:23| 活動報告

2022年10月24日

何をどれくらい聞いているのか その1


練習録音や演奏録音を聴いて「自分のつもり」と現実のギャップに落胆すること、誰しもが経験していると思います。

ただ「自分のつもり」が、実は曖昧で確信ではなく取り組んでいることは多く、じゃあ何に落胆しているかと言えば、自分の頭の中にある「いい演奏」との距離だったりする。

これを繰り返しているだけでは、実は録音して聴くことの効果は薄い。

そのうち慣れてきて「やっぱりダメか」との諦め始めたりまでする。

やはり「自分のつもり」を確固として持ち、それと比べられるようにならなければ、改善力は弱いとなる。


ふと思ったのですが、盲目のピアニストって何人かいらっしゃいますね。僕もコンチェルトの伴奏をしたり、コンサートを聴いたりしたことは何度かあります。

いつも「すごいなあ」と思いながら見つめているのですが、彼らはこの録音ギャップは極めて少ないのではないでしょうか。

なぜなら「目から入る情報は一切無い」ということに関しては、練習中も本番中も録音中も、それを聴いている時も同じだから。

もちろんピアノの前に座っていることと録音機の前で聴いているという距離感の差はあるし、弾いていることも確かだが、それと演奏を聴くこと以外の余計なことは普段から無いわけで、耳と腕だけが使えることになり、だからこそできる集中、見つめられる的確さがあるように思います。

盲目のトロンボーン奏者というのは、きっとどこかにはいらっしゃるのでしょうが、僕は存じ上げません。ただスライドを動かすことに関して、ピアノよりは全然楽なはず。普段から7つのポジションをガッツリ見つめて吹いているわけではないので。

ここに、私たちの現実の理解と、効果的なトレーニングへの指標が隠されている気がするのです。

posted by take at 15:39| 活動報告

2022年10月23日

失われる深さ


響きを広角的に開いていくと明るく美しくなっていく。それを貫き通したいなら、とことん開いて綺麗に仕立てていけばいいが、実は「無くなってしまう成分」もある。

それはまさしく「深さ」でしょう。


現代のように「白黒はっきり」「情報開示の徹底」「見通しの良い社会」「カメラによる全ての監視」みたいなテイストは、一瞬「クリーンで美しい社会」へ向かっているようにイメージさせる。

しかし人間の感性、欲求の本音というのは、そんなにシンプル一択ではないと思う。


深さが失われるというのは「苦悩から歓喜へ」の苦悩を排除することになり、そこに蒸留水のように残った歓喜だけで人間が本当に満足するのか?

片方だけに寄ることの危うさはここにもある。

「美しく」。同時に「美しさではない深さ」も失わず求めないと、気がついたら悶々とする人生になる、そんな落とし穴が人類には存在しているのだと思います。

posted by take at 09:05| 活動報告

2022年10月22日

素材の存在感


外食が「味が濃く大味に感じる」というのは何度も書いてきた。

何を食べても美味しくないというわけではもちろんないのだが、家人の味付けが特に好きで、それと比べてしまうのかもしれない。

ただ最近、いくつかの店で「あ、美味しいなあ」と感じることが続いた。

その全てが薄味、優しい味というわけでもない。

共通してるのはやはり、素材の味が美味しく出てる、調味料、調理で失われてないということのよう。

素材の存在感って大事ですね!

農家の力量はすごいし、動物たちや泳ぐ魚の生き様をまんまいただくわけですから。

posted by take at 08:46| 活動報告