僕は「嫌われてもいい、平気」と開き直ること自体が、昔から苦手です。自分ができないという意味ではなく、そういう生き方の人のその部分が苦手ということです。
どちらかと言うと、嫌われないよう努力することの方を良しと思ってしまいますが、ただこれは度が過ぎると嫌らしくなってくるので、結局やり口がどうこうよりも結果から学ぶべきなのでしょう。
嫌われているか、嫌われていないか。その結果から。
「嫌われることを恐れるとなにもできないだろ」「賛否両論あるのがいいんだ」と、もちろんいろんな声が聞こえてくる。
しかし嫌われる部分がはっきりしている人は、改心や更生のタイミングを失うとどんどんエスカレートして嫌われていき、ひとりぼっちになったり、場合によっては最期周りの思いが「おとしめたい」にまでなり、現代では社会的制裁にまでなる場合も多い。嫌われていると、結局時間と共に本人が損をするようになっている。恨みを買って、それが悪行貯金のように貯まるんですよね。
嫌われない人。
やはりイチローのスタンスにヒントがある気がする。
断定的なイチローの雰囲気とか、かっこよすぎて嫌って人もいると思う。
しかしイチローが嫌いだと言うと、そっちの方が損をしそうなくらい突き抜けている。本人も「出る杭は出過ぎればいいんです」とも言っている。
あのイチローの姿に、嫌われないことのエッセンスがあちこちに充満しているようにも見える。
「そら、実力でしょ、凄いもん」
もちろんそうだけど、それだけじゃない「嫌いになれない信念的なにか」があるように見えるのです。
2022年09月01日
悪行貯金か嫌いになれない信念か
posted by take at 21:42| 活動報告