2022年09月20日

どぶろくの力


最初に謝ります。

ブログっちゃあ、書きたい時に書くもんだと思うのですが、僕の場合なぜか宿題になる始末。それが気づいたらえらいことになっていたので、しばらく手抜きとも言える、いつも以上に内容も笑いもないので進ませてください。

本人的には少しはウケてたりするんです‥‥す、すみません。


ある楽しい飲んべえの発言。

「どぶろくって飲んだら、余裕でダメになるやつですね」

というのに、なんだかハマりました。余裕でダメになるって、意味がわかるだけ大人の階段昇ってしまっていました。

ちなみに彼は、トイレに行こうと立った際、物凄い余裕でダメになってました。

以上

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2022年09月19日

M(無到達)V(ヴィンテージ)P(プレイヤー)に


大谷翔平君の素晴らしいプレー見たさに、中継をチェックしたりする。普段は半年近くそんな存在と共にというの、僕にはない。彼くらい光ると、誇らしさと共に日本人として随時応援したくなる気持ちが自然と湧き、そんな存在があることに有難さも感じます。


大リーグが終盤を迎えた今、ホームラン数の記録を塗り替えようとしているジャッジという若者と大谷君のどちらが年間MVPを獲るのかという話題で、アメリカは連日盛り上がっていると。

両選手とも歴史的記録が判断材料ということで、例年より沸騰具合がチンチンに激しいらしく、どちらが獲っても相手側は「彼さえいなければ」と思うだろうと言われている。


ここからは僕の持論なので、そう思わない人はスルッとスルーして欲しいんですが‥‥

下馬評ではジャッジがリードと。

そうでしょうね。我らが翔ちゃん、ホームランが続くかなと思わせといて続かないし。ジャッジはコンスタントにパカパカ売ってるし。だから年間最優秀選手はジャッジでいいと思うんです。


いーじゃないですか、どーぞと譲りましょう。


だって翔ちゃんのやってることって、今年に限っての一番凄いことというより、大リーグ全体の歴史、百数十年の歴史の中で群を抜いて一番凄いことなんですから、そんな一年なんて短いスパンで語るようなこっちゃないです。

スケールが違う。

「スケールが違うからこそ大谷に」という意見もあるが、ジャッジ君はとにかく凄いんだから、今年の分は渡せばいいんです。

去年「大谷さえいなければ」と言っていたホームランキングたちは、今年は全く打ててないようだし、大谷は今年、去年より凄い記録ばかりだし。

もしこれから先10年、いや5年でも翔ちゃんがこの2年と同じような活躍をしたなら、それこそ不世出と言われ、誰も貰えようのない栄誉が与えられる可能性が大きいのですから。

巨大過ぎる存在なので、特に今年のってのはいいんじゃないかなあ。

あげましょう、ジャッジに。

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2022年09月18日

なんかあったらどうすんだ?


元陸上選手の為末大氏が発信した意見。

「私たちの国は、何かあったらどうすんだ症候群にかかっている」は、このコロナ禍特にそういうシーンが多いものとして、凄く納得できる。

そして「それは社会に安定と秩序をもたらすが、副作用として停滞を生み、個人の可能性を抑制する」と。

また「この症候群は、未来は予測してコントロールできるものと考えて、その逆算でしか物事を判断できないということから。だが、実際には予測しないことが必ず起きる」とも。


この「何かあったらどうすんだ」は、危機管理から回避までに不可欠なものでもあるため、考えれば考えるほどその是非を一元的に語るのは困難だが、しかし彼のいう副作用というのもよくわかる。どうしてもマスクを取れない日本人だし。

ただ「自分たちはこの症候群に支配されがちだ」ということと、同調するこの副作用の内容を具体的に理解し、そしてバランスを取ろうともがくことは大事だろう。

欧米の大胆さには「なんで?」と思うことは多いが、同時に「だからあんな素晴らしさが生まれてくるんだ」と思い、日本人の突破すべき限界壁を感じることもあるのだから。

実は考えれば考えるほど、とても深い問題だ。

posted by take at 08:05| 活動報告

2022年09月17日

一番美しい大きさ


あるときN響のチェロの大御所が、


「一本のチェロと一本のトロンボーンの音量を機械で計測したら、数値的には何倍もちがうんだよね」


とのたまったことがある。

‥‥測ったのね、比べたのね。


たとえばそれぞれがfで演奏した時の音量の差とかの話でしょう。そのときは「うるさくてすみません」と思いながら「だから向こうが10人で弾いても、こっちが3本で吹いたらとてもデカイという話になるのか」と。


最近「無理をしない練習」というのを心掛けている。具体的にいうと、小さな音量でのトレーニングが主になっているということだが、ピアノを吹きながらふと

「もしかしたら数値的にはこれくらいがチェロのmfと同じ大きさかな?」

と思う瞬間がありました。

そして「一番美しい音色とはこれくらいなのかも」と。


どの楽器ももちろんあらゆる音量が美しくなければならないのはそうだし、ニュートラルな音量というのは差が出てくるとしても、

「人の耳に一番美しい大きさというのは数値として同じくらいかもしれない。その大きさを理解し、それが大小散りばめられるということが大事なのでは?」

と思ったのです。確信はないけどなんとなく。


で、チェリストの嘆きを思い出す。

‥‥気をつけよう。でかきゃいいっちゅうもんじゃない。

posted by take at 07:36| 活動報告

2022年09月16日

讃岐のうどんの未来


僕が大学生として上京した1984年頃、東京で讃岐手打ちうどんの看板を出しているいくつかの店で食べてみたのですが、それは地元のものと驚くほど差がありました。

コシが強いというのをはき違えているのかゴムのように堅いものや、出汁も何の味なのかよくわからないようなものまで。とにかく料理として美味しくないものばかり。チェーン店はなく、みんな個人店だったが、どこで食べても全く冴えず、そのうち探すことをやめてしまいました。

しばらくして、恐るべき讃岐うどんで紹介された銀座の店、また県人会で話題になった小川町の店を訪ねるとかなりイケているうどんが食べられ、電車で通ったりもしました。

そして2001年、いきなり安価チェーン店「はなまるうどん」が登場。あまりピンとはこなかったが、それでもあちこちで安く気軽に食べられたので、そこそこ利用していた。

更にときは流れ、讃岐の人間は皆認めたくないがとにかく商売の上手い「丸亀製麺」が日本中を席巻し、更に世界にも進出。

最近は讃岐の名店も東京に出店し、行列ができている店が何軒もあったりする。

あの昭和の時代からすると、東京におけるうどん状況は、天国のようだとも言える。


それでも私たち讃岐人のみならず、あそこへ食べにいった人は皆同じように言う。


「本場は全然違うね」


店の数もだが、それぞれの大将のこだわりのうどんたちは、1日で何軒も廻りたくなる個性豊かな美味で、私たちを幸せにしてくれる。

東京では、全くその気にはならない。


ふと思う。

あらゆる名物が「地元でしか」でなくなりつつある現代だが、我らが讃岐うどんはこれから先10年後20年後、いや50年後も100年後も


「やっぱり讃岐で食べると全然違うね」


と言われていてほしい。

讃岐うどんこそ、いつまでもそんな謎めいた誇り高き名物であってほしいのです。

posted by take at 18:16| 活動報告