2022年08月23日

脱動物


人間は「一介の動物」であろうとするか「知性のある特別な生き物」であろうとするかのせめぎ合いの中で、常にもがきながら生きていく生命体ですよね。

全ての言動は、動物寄りか知性生命体寄りかに選別することもできると思います。

「怒りとは衝動的病である」みたいな価値観聞いたことがありますが、病かどうかは専門医の判断に任せるとして、その瞬間は極めて一介の動物の方へ振れているのではないでしょうか。

「性衝動が抑えられず犯罪に」というのは、このカテゴライズとしてはわかりやすい話だと思います。


僕が最近特に考えてしまうのは、実は動物の世界の大半には意外と階級や差別があるということ。

先日書いたうさぎの世界にははっきりと階級があったし、猿の仲間の中には、オス同士の闘いで勝ち抜くとどんどん顔が大きくなっていくのもいる。身体にまで階級が現れるように進化しているというから驚き。

実は人間の世界より露骨に差別が横行しており、それぞれに非情とも言えるような現実が存在していたりする。(露骨も非情も「人間的過ぎる感覚」なのだろうが)

つまり人間も動物である以上、階級を作り、差別をしたりされたりするのが自然なのかもしれない。いや、そうなのだろうし、実際歴史が物語っている。


同時に、人間世界は長い時間をかけてそうではない方向へと向かう戦いを続けてきたし、ここへきて更に「脱差別」へ加速しようとしている。

差別の非難に加え、多様化という幅広いフィールドをじわじわ感じていっているのも、実は「反動物」であり、「知性生命体方向へ」との指標だ。

「一介の動物」へ振り切れてはならない、人間にとっては蛮行に繋がっていく。
野蛮な方向へと退化してはならない、その退化は成り下がりだ。

という、全ては極めて知的進化を目指してのことだろう。


一度きちんと考えたいのは、一体人間ならではのどの感情がそうさせるのか。

それはやはり、相手の立場に立つという「思いやり」に他ならないのだろう。

自分にとっての苦痛は相手にとっても苦痛、自分にとっての喜びは相手にとっての喜び、だから相手も自分も差がなく同等にという、自分のことだけを考えるという価値観そのもののうち、何割をも相手に分け与えるように使うこと。

これはやはり、思いやりという言葉しか浮かばない。


つまり、究極の動物的思考は自分勝手であり、究極の知性というのは思いやりだとも言えるのではないだろうか。

posted by take at 18:46| 活動報告