僕は道具について、一般論的視野で持論を書いてきたことは何度かありますが、今日は自分の選択について少しだけ具体的に。
変遷としては(テナー限定です)
中学スタート時はコーンのテナー。
その後高校三年の秋までヤマハ。
受験からバック。
大学四年で新日本フィルに入ってから少ししてコルトワ(クルトワ)。
一年くらいでバックに戻る。
25才でN響へ入り、数年してコーン。
数年してバックに戻る。
31才で留学し、向こうでコルトワに。
帰国して四年くらいしてバックに戻り、以降20年ほどバック。(途中本当に一瞬トローヤ)
全く同じモデルや、同メーカー異モデルへ(いろんなバルブ)の買い替えは何度か繰り返してきました。
エドワーズやゲッツェンなどのアメリカ管、あらゆるドイツ管、ヤマハの新しいモデル含め、大半は必ず試奏はしてきましたが「これは僕は吹けないな」の判断はかなり早い方です。
その理由含め、今日書きたいポイントは「なぜバックに戻るのか?」
物凄く端的に書くと
「響きとして聴こえてくるとある成分、バックにしかないそれを捨てることができないから」
です。
そう、捨てることができない成分があるから。つまり、他の大半の楽器もとてもいい音ばかりだと思うくらい現代は百花繚乱だと思っていますが、バックにだけあるそれが手放せないからなんです。
なんなら「バックよりもこの特徴がいい音だなあ」と思ってしまう楽器もいくつもあるんです。
だからこのコアなこだわりがなければ、それぞれの個性の間でふらふら浮気のようにさまよい続けているのかもしれません。
しかし同時に、バック以外の楽器の音を吹いたとき(聞いたとき)、僕には「無い」と思ってしまう印象があるということにもなります。
それを良いだの悪いだのとやかく言うつもりは欠片もなく、あくまでも僕の中でのほんの一部、しかもかなりマニアックなほーんの一部分の印象でしかないのでしょうが。
「この部分がどうしても捨てられないんだよねえ」という価値観は、楽器だけではなく、僕の場合あらゆることにある気がします。
だからこそそれ以外の大半を諦めるし、だからこそ信じて付き合いを積み重ねていくことを選ぶのだと思います。