2022年08月06日

運命は自分が定める


間違いなく言えるのは、生き甲斐ともいえるほど自分の人生ってにおいての充実した時間になるべく貢献するようなアイテムは、間違いなく自分自身が選び設定するものだ。

物心つく前から親にバイオリンをやらされていてそのまま気づいたら生涯の生き甲斐になっていた、そんな人もいるだろうが、実は自意識が定まってきた頃に必ず自分で続けることを選んでいるはず。無意識でスタートしたはいたが、途中自分の意志でやめている人も数多くいるのだから。

親だけでなく、先生含めた誰か大人に、後押しのように背中を押されたという人もいるだろう。導かれたとか。そうであったとしても、絶対どこかのタイミングで

「自分が選んだ」

ことがあるはずなのだ。


もし「生き甲斐がない」「夢中になれるものがない」「集中して取り組めるものがない」「長続きしない」というのなら、それは出会いの問題ではなく

自分が選んでない

自分が設定していない

全て自分でそうしてしまっている。周りのせいでは全くないということを、そんな人も知るべきだと思う。

posted by take at 15:57| 活動報告

2022年08月05日

小さな違和感


身体の調子、身体を使ってやることの調子、人間性の判断、人間関係‥‥

取り返しのつかない不調、トラブルを回避するために、あらゆることに必要なのは


「小さな違和感を見逃さない」


だと思う。

この小さな違和感を見過ごしたり、なんなら受け入れたりすることで、身体なら巨大な不調への道を歩み始めたり、人間関係ならとても困ってしまう関係へとスタートしてしまったりする。

そして大概のことは、この小さな違和感に早期に対処することで、回避できたりもする。

身体なら、病院に検査に行く、実験的なことはやめていつものパターンに戻す。

人間関係なら、自ら離れていく、離れてもらうよう勇気を持って動くなど。


今までの幾つもの症例、回避できたこと、結局トラブルになってしまったことを思い起こすと、分岐点に必ず「小さな違和感」がある。


今後、なんとかうまく判断しながら進めますように。

posted by take at 12:09| 活動報告

2022年08月04日

とにかく研究


「教育の現場に必要なのは、研究をする生徒であり研究をする先生」

結局シンプルにこれじゃないだろうか。


「学ぶ」とか「教える」というのはただの事象であって、必要なのは教師だろうが生徒だろうが「研究」。内容や方向は違えど、双方からこれが発動され渦巻かなければ、そもそも教育にならない。

研究なき取り組みを想像すると、冴えないことがよくわかる。


いや、大学ならそうかもしれないけれど、義務教育過程なら「ただ学ぼう」「とにかく教えよう」ではないか?

そんな疑問も聞こえてきそうだが、でもたとえ低年齢、低学年であっても研究のけの字もなければ、結局何事も身につかない。


そして、研究と工夫はセットであり、工夫をし始めるかどうかは年齢と関係ない。

人間以外の動物の知恵、大体生き抜くためのものだったりするが、それを目の当たりにするとき、基本動物たちの工夫に驚き感心したりする。


人間も動物ですから。

posted by take at 11:37| 活動報告

2022年08月03日

勝とうとしないという愛


世の中には、性格や趣向、価値観など人間性においても、更に能力においても、そもそも性別においても「本当に様々な人間がいる」と、もう既にかなり理解できているのに、それでもまだ不満や文句、口撃、差別や制裁で「我こそが統治しよう」という愚かしい気持ちになってしまうのは、やはり

「自分は間違っていない」

ということをアピールし、確認し、なんとかして生き抜こうという性というか本能というか、うまく発動できれば問題なく多くの幸せを呼ぶそんな本音が、残念な形で現れてくるからだろう。

誰も統治されたくないし、論破どころか諭されたくないし、認めて欲しいのは全員一緒。

自分こそが正しいということを言葉の武器とし、相手をなんとかしてやりたいというのは、ただ「我が正当のアピール」でしかない。

間違いなく相手のためではない。

社会には弱者はいるし、そもそも大人になる前の未成熟な子供もたくさんいる。

全ての人にエゴはあるし、実は尊厳の話をすれば権利もある。

その現実を考えながら、結局エゴの話になればそれを否定し切るのではなく、それに勝る「無勝の愛」がどれだけ沸くか、それに尽きる気がします。

posted by take at 11:08| 活動報告

2022年08月02日

先生と生徒


「先生と生徒の関係とは、有識と無識という階級関係では成り立たない」
(寺山修司)


「自分は知らないから、教えてもらおう」は師弟関係の話にあらず。

「こいつは知らないから、教えてるんだ」は師弟関係のことではない。

そういうことだ。


では、どういう関係だと成り立つのだろう?

実は、肩書き的立場としては先生と生徒、師弟であっても、真の関係の意味は各々にとって違う。

生徒の立場としては、欲しいものがあり、それをゲットできるきっかけやチャンスとして、先生の存在に有難い何かがありそうだということ。実はその程度。その有難そうな何かが利用できれば、そこで初めて「良い先生と生徒」という関係が派生するし、利用しなければ「肩書きだけの無益な関係」にしかならない。

先生の立場からすると、気持ち的には「仕事」であれ「導きたい」であれ、それ以上に「目の前の生徒を研究したい」が湧き上がり勝れば、そこで初めて先生になれる可能性が出てくる。生徒が上記の利用型の人であり、それに相応しい成長があってやっと先生になれるようなもの。


つまり寺山修司の言葉のように知識の有無による上下どころか、各々の生き方によって先生や生徒になれる可能性がようやく出てくるものだし、良きものが合致しないと、そもそも師弟には遥か届かないとなる。

それは先生でも生徒でもなく「ただの二人の人間」なのだろう。



posted by take at 10:32| 活動報告