2022年08月16日

結婚適齢期


「結婚適齢期というのは、やっぱりあるな」

僕が最近気づいた、というかたどり着いた考えです。


適齢期より更に大きな括りとして「結婚可能期」というのがある。

それは

「自分の習慣がやっぱり変えられないと思ってしまった瞬間、それ以前」

となる。

そして

「相手といて、自分の習慣がどうとか考えることもなく過ごしている期間」

はいつでも適齢期。

数字の何歳かは関係ない。それがたとえ50歳であろうが60歳であろうが70歳であろうが、同棲してみて、そこまでしてなくてもデートしてみて

「嗚呼、自分の習慣と‥‥」

と考えなくて済むならいつでも。


若くして結婚した人間が100パーセント言う「勢いだったんだよねー」の勢いは、相手との価値観に四苦八苦してる中に習慣は埋もれてしまっており、そんな日常に突然湧き出てきた感情のことを言っている。

もちろん子供の頃からの習慣がないわけではなく、ただただ相手と揉めながら妥協し合える範疇の癖みたいなものでしかない、そんなうちはいつだって適齢期なのだと思います。


いつでもと書きながらも平均的な話をすると、社会へ出て一回りくらい、35歳くらいになると、ひとりで生きてきた人はだいたい自分の習慣を意識し始めながら生活を安定させていっている気がします。

そういう意味では、一般的適齢期はなんとなく見えてきたりもします。

posted by take at 13:35| 活動報告

2022年08月15日

ちゃんと広げて、うまくまとめる


人生とは「広げた後まとめる時間」だなあと思う。

親から生まれてきたときには「そこ」しか知らない、極めて狭い世界を生きる。

知識を得ていったり、様々なことができるような能力を身につけていくにつれ、どんどん世界を広げていく。自動的に広がっていくとでもいうか。学校へ行って友達ができること、部活動なんかも個人的にググッと広がりが増すアイテムだ。

僕の場合、大学入学のため上京してからは、それまでよりも大幅に広がりが加速した。

見るもの聞くもの、行動範囲から経験すること、求められることや責任を持たなければならないことまで、成人になる辺りを機に、毎日のようにダイナミックに広がり続けた。

今思い出してみても、とてもエキサイティングで刺激的な日々だったと思えるのは、とにかく僕の人生がノンストップで広がっていったからだろう。



就職し仕事をし、結婚もし更に家も買い、どんどん年月が過ぎていく。

どのタイミングからだったのだろう、僕は自分の意思で広げるのをやめ、そしてまとめ始めた。

直ぐには自覚はなかったが、しばらくときが流れてから「ああ、もう広げたいという気持ちではなく、できればいくつかの大事なことだけにまとめて、それを深めていきたいなあ」と思っていることに気づいた。

どこが方向転換のタイミングだったのかは分からないが、でも「自分の能力を、本気で理解できたとき」というのがそうなんじゃないかと思う。

自分に向いていること、向いていないことの正確な理解。諦めでもあるし確信でもあるし。これ以上あれこれ広げるとパンクするだけとわかることも。

誰がが言っていた「ひとりの人を物凄く好きになることが、人間にとって最も大事なことだ」というのは、いつかからは博愛的愛情もひとつにまとめていくべきだと言っているようにも聞こえる。

1日は24時間しかないし、一年はそれが365回繰り返されるだけ。

限られた時間は、まとめたいくつかの柱を大切に深めていく、そうやって完走したいと。


これはもちろん、人生の前半である程度広げなければ、そんな気持ちにもなれなかったりするのだと思う。

年をとってなんか物足りず、なんかやり切れてないと感じたり、とにかく第二の人生で第一以上に充実したがる人というのは、あまり広がらなかったか、うまく広げられなかったかなのだろう。

そういう意味で、若いときにはやれることは、やれるだけやってみるのがやはりいいのだろう。その都度自分の趣向と照らし合わせることができる余裕があるなら、とにかく広げてみることだ。

そうすれば、ある瞬間から「もうデパートであれこれ見ながら買い物しなくても平気」になってくる。若い頃あんなに興奮していたのに‥

それはワクワクしなくなることでもあるのだが、結局「何かがわかってきたから」なのだろう。

そうしたら、後の人生は自分の時間がいいように進み、いい感じで気持ちよく埋まるために、まとめればいい。

ちゃんと広げて、うまくまとめれば、最高の人生が完結するのだと思います。

posted by take at 15:28| 活動報告

2022年08月14日

嘘の罪


人は本当に全く嘘をついてはいけないのか?

それとも、内容と程度問題でついてもいいのか?どんな内容なら良くて、どの程度からはだめなのか?


実はこのことが「人生の命題」だとまで感じるようなタイミングが、長く生きれば生きるほど、いつかは誰しにも訪れる気がする。

それくらい世の中にはあらゆる場面で嘘が舞っているし、実はあまりに多くの愚かさが、あまりに多くの人を小さく、また大きく傷つけている。


それでも「人は、その時の気分で言うことが変わる」だし「過去は美化してそう思い込む」というのは、誰しもが胸に手を当ててしまうことだ。「そう思い込んでるんだよね」という訳の分からない言い訳と共に。


「真実のみ」がはっきりと求められるのは裁判。

スタート時における宣誓は「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います」であり、証人の場合、嘘をつけば偽証罪に問われてしまうこともある。

この場では「嘘は悪。全て真実であることが正しい」となっている。


裁判以外の場面では、決して嘘は悪とはならないことがある。

「正直者は損をする(バカを見る)」

更に「バカ正直」という言葉もある。


「冗談やんかあ」は、「ちょっとした嘘やんかあ、それくらい見逃してよ」だし、「なにまにうけてんのお」と相手を非難する道具にすらなったりする。「わかっててもスルーしてよお、見逃すのが大人やないかあ」と、相手を子供扱いする武器に。


ひとつだけはっきり言えるのは、嘘はついた人以外の人が傷つくということ。

その責任は誰が取るのか?

裁判じゃない限り「人って弱いからそんなもの」とわかったふりをしながら、自分でその傷を治すしかないのか‥‥


どうにもならないくらい複雑なことにぶち当たった時ほど、嘘を恨めしく思うことはない。

posted by take at 16:14| 活動報告

2022年08月13日

ねぇ聞いて、そこじゃなくてそこそこそこそこそこそこそこそこ!!


人間とは面白い生き物で、発言の回数というのは「思い」や「クオリティ」と比例していたりする。

たとえば

「ねぇ、聞いてよ」よりも

「ねぇ、聞いて、聞いてよ、聞いて聞いて!」

の方が、訴えたい、伝えたい、理解してもらいたい気持ち、更に言いたいことの信憑性が強かったりする。


背中が痒くなったときに

「ねぇ、掻いて」から「もっと右、もっと上、もっと左、もっと下‥‥」

なんて、広範囲をやってもらったりもするが、場合によっては

「あ、その辺、そこそこ、もっと右かな、あーそこそこそこ、ちょっと下、そこそこそこそこ、まだちょっと左、あ〜〜そこそこそこそこ、そこもっと強く〜」

と、位置に関して限定されればされるほど、言葉は繰り返されたりする。


「リズムとは精度である」は僕が生徒にいう言葉の中でも頻度の高いものだが、このリズムというタイミング、時間の中のとあるタイミングを示す時も

「そこ」ではなく

「そこそこそこ」の方がいいし、もっともっと

「そこそこそこそこそこそこそこ!!!!」

くらい、チョーチョー超長張腸限定していた方がいい。

正しい正しくないでは済まない、そんなリピート連呼の世界にあるものだ。

posted by take at 17:27| 活動報告

2022年08月12日

本当にやりたいこと


コロナでの休み、家に篭りある意味社会と遮断していると「本当に自分がやりたいこと」その姿が見えてきたりする。

僕の年齢になると、正直今までやってきたことで見えている柱以外のことは、そりゃやったらやったで楽しいこともなくはないのだろうが、現実的には一から始めようとはなかなか思えないのが本音。

ので、今までの人生のプログラミングから見えているものが、やはりやりたいことに極めて近い。

そう考えると‥‥

トロンボーンを吹くことはもちろんだが、オケやアンサンブル、ソロを

「尊敬できる気心の知れた仲間とやる」

ということが何より。実は誰とでもないことは確か。誰とでもとなると、実は一気にやる気が失せる場合もある。

それくらい「誰とやるか」が物凄く大事だ。


そして、レッスン。

これは彼らの成長に貢献したいという強い希望が根っこだが、同時に「絶大なる効果へのアイデアの研究」というのが本当に大きい。

これまたそれなりに長いプログラムになっているので、単発のものより、数年に渡り付き合いながらお互い染まっていくような関係性がいい。

そういう意味で、4年から6年とレッスンできる大学の環境は本当に有難い。

パンクするほど次から次というのは性に合わないので、ある程度限られた生徒数と濃厚にというのがいい。


どちらも「何をやるか」もだが

「誰とやるか」

が大きいことに気づける。

N響もジパングも、東邦も沖芸も、ブロカートも、そういう意味でとても有難い環境だ。

posted by take at 16:49| 活動報告