家人の料理がかなり美味しいというのは、知り合いにはよく知られています。
コロナ以前はホームパーティ‥大宴会ですね、なんてのも頻繁にやっていたので。
多い時には15人分くらい、8時間コースくらいの料理をひとりで作って振る舞っていました。お酒が進みベロベロになった頃に炊き込みご飯やパスタが出ても、みんなあっという間にペロリ。「美味しい美味しい」という言葉は決してお世辞じゃないと、心から信じています。
「お店で出すと、絶対人気になるよ」というと「そんなわけない、家庭料理で適当に作ってるから」と必ず言います。
もちろんその日の気分で味を変えることはできないし、かけるコストと希望価格のバランスもある。薄味濃い味に始まり趣向は多岐に渡るし、そら商売料理人になったらと考えたら、単純な話じゃないだろう。
でも単純な僕は単純に考える。
今日食卓に出たこの料理も、近所で出す店があったら絶対リピーターになる。1週間に2.3回は通うかも。
そんなメニューがいくつもいくつもある。
つまり僕はリピートしたくても通いきれないだろう。
現実としては、大半の飲食店にはリピートしない。そこまで美味しく感じないから。
しかし僕の現実はかくも幸せ。我が家は名店揃いの最高級レストラン街のよう。
活字から美味しさと羨ましさが伝わりますように。
2022年08月20日
性分と相性
西田さんの寄稿からもうひとつ感じだこと。
『では、軽いマウスピースは吹けないのか‥‥というとそうではありません。息を「どっか〜〜ん」と入れるプレイヤーにとっては吹きにくいと感じますが、息を「全てコントロール下における」プレイヤーにとってはこんなに使いやすいマウスピースは他にはないのです。ある意味、重い楽器と軽い楽器‥‥これの使い手がハッキリと分かれてくるのとよく似ているのではないかと思います』
これまたとてもわかりやすく、納得と共に、新しく奥行きの方へ考察が向かいます。
キーワードは「性分」
そう、僕も完全にそうですが「どっか〜〜ん」と送りたいという性分なんですね。
そしてそうじゃない人もいて、その人にとっては違う道具、違うやり方が良かったりする。
つまり全ての道具やノウハウというものは、スタンダードが存在しつつも、そこから先細分化されたところに「人の様々な性分との相性」がある、絶対的是非ではないという現実。
もちろんマジョリティ、マイノリティということはあるだろうが、それでも大事なことは
「自分の性分とあっているものこそを的確に選ぶ能力を持つ」
ことでしょう。人がどうこうではないしそれに振り回されたりせず、我が性分にこそ正直に。
性格というのは意外に他人の方がわかっているとしても、性分というのは、最後は自分にしかわからないものだったりする。だから自分こそが性分を正確に理解しようということは大事で、それができれば、他人の性分も認めることもできるようになる。
我が根っこに対し的確に選べているか否か。情報や余計な憧れに振り回されていないか。
是非の議論というのは、ここにこそあるべきだ。
多様化に対する価値観も、この真理にこそ大切なポイントがあるのでしょう。
西田さんの寄稿からもうひとつ感じだこと。
『では、軽いマウスピースは吹けないのか‥‥というとそうではありません。息を「どっか〜〜ん」と入れるプレイヤーにとっては吹きにくいと感じますが、息を「全てコントロール下における」プレイヤーにとってはこんなに使いやすいマウスピースは他にはないのです。ある意味、重い楽器と軽い楽器‥‥これの使い手がハッキリと分かれてくるのとよく似ているのではないかと思います』
これまたとてもわかりやすく、納得と共に、新しく奥行きの方へ考察が向かいます。
キーワードは「性分」
そう、僕も完全にそうですが「どっか〜〜ん」と送りたいという性分なんですね。
そしてそうじゃない人もいて、その人にとっては違う道具、違うやり方が良かったりする。
つまり全ての道具やノウハウというものは、スタンダードが存在しつつも、そこから先細分化されたところに「人の様々な性分との相性」がある、絶対的是非ではないという現実。
もちろんマジョリティ、マイノリティということはあるだろうが、それでも大事なことは
「自分の性分とあっているものこそを的確に選ぶ能力を持つ」
ことでしょう。人がどうこうではないしそれに振り回されたりせず、我が性分にこそ正直に。
性格というのは意外に他人の方がわかっているとしても、性分というのは、最後は自分にしかわからないものだったりする。だから自分こそが性分を正確に理解しようということは大事で、それができれば、他人の性分も認めることもできるようになる。
我が根っこに対し的確に選べているか否か。情報や余計な憧れに振り回されていないか。
是非の議論というのは、ここにこそあるべきだ。
多様化に対する価値観も、この真理にこそ大切なポイントがあるのでしょう。
posted by take at 13:30| 活動報告
2022年08月19日
充満して受け止めてくれて
トロンボーン協会の会報の中の、バストロンボーン奏者西田幹さんによる【軽いマウスピースはどうなの?】という寄稿。この中で「ああ、この表現!」と、膝を叩くようなものがありました。
『音を出そうとして、息が出ます。その息がマウスピースのカップに充満して、一瞬ですが飽和状態を迎えます。この時にいわゆる「抵抗」を唇に感じることになります。この一瞬‥‥マウスピースが息を受け止めてくれる感じが‥(中略)‥もちろんそこには楽器自体の抵抗も加わるかと思います。この受け止めが無いマウスピースは私にとっては非常に吹きにくいマウスピースとなります』
そうそう!
このことをこんなに的確に言葉にしてくれたもの、僕は初めて出会う気がします。シンプルであり納得!見事!!
この受け止めてくれる感に対するセレクト次第で、自分の「どう吹きたがっているかという性分」と幸せに付き合っていけるかが決まってくるのだと思います。
これは、その後息がスムーズに流れ続けるということに大きく関係してくるし、同時に流れ方に関して勘違いの根っこにもなる。「心地良く流れている」と「持ってかれている」の差に繋がるのでしょう。
息というのは「余計なことを考えずに送れる」ということが大事。吸う瞬間、表現に対するイメージだけが湧いて、出したら「そうできたかどうか確認しながら進めばいい」だけ。
これ以外を考えなくてはならない、つまりなんらかのコントロール義務が訪れるなら、そして数日試してもそれが「何も考えない状態」になれないなら、やはりもっと自分に合った良い物があるのでしょう。
その根幹に、この西田さんの価値観があるのだと思います。
言葉って大きいですね。具体的想像の精度が変わる。理解も感覚も変わることに貢献する気がします。
トロンボーン人生の間に出会えてよかった。西田さんに感謝!
posted by take at 12:14| 活動報告
2022年08月18日
僕の「根本の理解」
大谷翔平クラスの凄さは、そのキャリアのとても早い段階から驚くほどクオリティ高くできたことからスタートしているはず。
ということは身体ないし頭、おそらく両方だが、野球をやるのに本当に大事な根本のいくつかが、もれなく理解、実践できていたはずだ。
それができていたからこそ、それ以外の細かいことがスムーズに上達し、スーパーマンへと完成していく。
逆説的に考えると、上手くいかない人というのは、その根本の習得に原因があるとなる。
実は、これは生徒側の問題だけではない。教師の方も、わかっていないのだ。
よく言われることだが、教師は「自分は自然とできたことだからわからない」というのは、本当にそう。何がわからないかというと「なぜできないか」もだが、そもそも「何がわからないのかもわからない」ということでもあったりする。自分が何ができて、どうなってきたのか、実は教師こそがわかってなかったりする。
訳わからないことを書いているようだが、要するに、大谷翔平ができた「いくつかの根本」、それが何なのかというのは、全てが分かりきっていないのだと思う。
なぜ僕がそう考えるかというと、そのいくつかの根本がもれなくわかりさえすれば、教育の初期段階で極めて的確に要求できるはずだし、求め方もわかるはずなのだ。
そして身体的問題を抱えている生徒でない限り、矯正を伴いながら導けるはず。
多くの現場で、教育が完璧に進んでいるわけではない。大概は生徒の質の話に逃げてしまうが、本当は
「教師の根本に対する理解不足」
なのだと思う。
何故だか落とし穴に落ちたように理解できていない。ひょんなところに、ものすごく大切な根本がある。
僕の残りの教育人生。なんとかして、辿り着きたい、最大の命題です。
大谷翔平クラスの凄さは、そのキャリアのとても早い段階から驚くほどクオリティ高くできたことからスタートしているはず。
ということは身体ないし頭、おそらく両方だが、野球をやるのに本当に大事な根本のいくつかが、もれなく理解、実践できていたはずだ。
それができていたからこそ、それ以外の細かいことがスムーズに上達し、スーパーマンへと完成していく。
逆説的に考えると、上手くいかない人というのは、その根本の習得に原因があるとなる。
実は、これは生徒側の問題だけではない。教師の方も、わかっていないのだ。
よく言われることだが、教師は「自分は自然とできたことだからわからない」というのは、本当にそう。何がわからないかというと「なぜできないか」もだが、そもそも「何がわからないのかもわからない」ということでもあったりする。自分が何ができて、どうなってきたのか、実は教師こそがわかってなかったりする。
訳わからないことを書いているようだが、要するに、大谷翔平ができた「いくつかの根本」、それが何なのかというのは、全てが分かりきっていないのだと思う。
なぜ僕がそう考えるかというと、そのいくつかの根本がもれなくわかりさえすれば、教育の初期段階で極めて的確に要求できるはずだし、求め方もわかるはずなのだ。
そして身体的問題を抱えている生徒でない限り、矯正を伴いながら導けるはず。
多くの現場で、教育が完璧に進んでいるわけではない。大概は生徒の質の話に逃げてしまうが、本当は
「教師の根本に対する理解不足」
なのだと思う。
何故だか落とし穴に落ちたように理解できていない。ひょんなところに、ものすごく大切な根本がある。
僕の残りの教育人生。なんとかして、辿り着きたい、最大の命題です。
posted by take at 16:55| 活動報告
2022年08月17日
嬉しくなって欲しい
僕の教育の根幹にあるのは、もしかしたら「成長を望む」ということよりも、自分が変わることで「嬉しくなって欲しい」のかもしれないと思う瞬間がありました。
教育ではないが、ブロカートでの取り組みなんかは完全にそう。
演奏が整い上手くいくことで、とにかく嬉しくなって欲しい。もちろん僕自身、オーケストラの指揮ができることを楽しんではいるが、それでも職業指揮者になってあちこちあれこれやりたいとは思わないのは、限られた大切な人たちの「嬉しくなる」こそが、一番の望みだからだろう。
ただ大学の教育は立場上、成長結果を残すという命題と共にある。
ので、彼らが上手くなればなるほど僕自身手応えを感じることはたしかだが、じゃあどこまでなればというと、これはゴールがない。
そもそも大学期間で完成するものでもない。
よってその都度その都度の成長に対し、どれだけ的確なことが貢献できたかの研究の日々になるが、「きりなく完成しない」のなら、やはり成果主義という感覚になり切れないのです。
僕自身がそうであるように、変われた自分に大きな喜びを感じるから未来へと進めるのなら、彼らに最も必要なのはその喜び、つまり
「嬉しくなる」
ということのような気がします。
posted by take at 16:21| 活動報告