2022年08月26日

あちらの眼


「アノネ 親は子供を みているつもりだけど その子供は親をみているんだな
親よりも きれいな よごれない 眼でね」(相田みつを)


「あのねのね 先生は生徒を みているつもりだけど その生徒は先生をみているんだな
先生よりも きれいな よごれない 眼でね」(吉川武典)

そ、そうだと思うけど、い、いや、先生の眼がよごれているかどうかは、人それぞれでしょう‥‥でもたしかに、生徒が先生をみる眼ってのは、あまりよごれようがないなあ。


「あのねのねのね 先生は生徒を 聞いているつもりだけど、 その生徒は先生を聞いているんだな
先生よりも きれいな よごれない 耳でね」(吉川武典)

これまた生徒の耳がきれいかどうかは‥‥でも先生のことを素晴らしい前提で聞こうとすることはたしかだなあ。

時々、それをきちんと染み込ませるように戒めないと。

posted by take at 19:32| 活動報告

2022年08月25日

ほうれんそう


「ホウレンソウが大事だ」

サラリーマンの世界でこう言われて、もう何年経ったのだろう。

初めて聞いたときは、特に「相談」に関して、昭和のあの頃「いちいち聞かずに自分で考えろ!なんでも聞くんじゃない!」、から随分空気が変わってきたんだなあと思ったものです。

そう、ご存じ本家は

「報告・連絡・相談」

ですが、パロディTシャツのネタで

「放置・連休・早退」

というのがありました。イラストは鳥獣戯画のがウサギとカメ風で、これがまたサボっている感が緩く出ていて秀逸。きっとお勤めの人は「こっちこっち」となるのでしょう。


感動的すぎる演奏の後なら

「放心・連呼(ブラヴォー!)・総立ち」


残念なオーケストラの本番なら

「崩壊・連鎖・総崩れ」


‥‥がんばろ

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2022年08月24日

人間だもの(相田みつをではなく)


芸能人はじめイメージ業的要素が強い人が、不祥事で残念なことになる。

だれかれ構わず有名人の不祥事をとにかく待ち望み、ゴシップこそを喜ぶような人も大勢いるので(僕はそんな人をヒマ人と呼んでますが)、粗探しから暴露まで無くなることがないことはたしか。

ただ僕は、そんなイメチェンを「とても、とても残念」に感じてしまうことが多くなった。


昨日までは「胸を張って自然に人前に出ている」のが、今日になったら「とにかく不自然に、申し上げなさそうに、堂々と出来ず」と。そして一度変わってしまったイメージが、元通りになることは決してない。

それを見るのが本当に残念で、本人の不徳とはいえ、そんな状況がある意味不憫で、「人は時が流れれば状況が変わる」っていうあれの、残念な時の流れに残酷さすら感じてしまう。


そんなこと言ったら、吉川も見た目そうとう残念になってるよと言われそうだが、見た目はまあ仕方がないではないか。それが年をとるということだし勘弁してくれい。っていうか、そこは自分以外の人は残念ながらほとんど期待していないのが現実。

ただ人間性のイメージというのは、「良い人であってほしい」という期待と共に持っていたりすることもたしか。

それが状況が変わり、こちらが見づらくなる、同情させられる、というのはやはり裏切られたという気持ちにもなってしまう。


とにかく一番大事なことは「被害者がいるなら、その人の無念は少しでも晴れなければならない」であり、その他大勢の立場のイメージは二の次三の次だが、それでもひとりの人間として、生きていく指針として「人間的輝き」というのは見ていたいし、「なんだ、あんたも所詮そんななのか」とは、思わされたくないのです。


所詮人間だもの、の「人間だもの」ではなく

やっぱり輝く人間は輝くねえ、からの「人間だもの」であってほしいのです。

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2022年08月23日

脱動物


人間は「一介の動物」であろうとするか「知性のある特別な生き物」であろうとするかのせめぎ合いの中で、常にもがきながら生きていく生命体ですよね。

全ての言動は、動物寄りか知性生命体寄りかに選別することもできると思います。

「怒りとは衝動的病である」みたいな価値観聞いたことがありますが、病かどうかは専門医の判断に任せるとして、その瞬間は極めて一介の動物の方へ振れているのではないでしょうか。

「性衝動が抑えられず犯罪に」というのは、このカテゴライズとしてはわかりやすい話だと思います。


僕が最近特に考えてしまうのは、実は動物の世界の大半には意外と階級や差別があるということ。

先日書いたうさぎの世界にははっきりと階級があったし、猿の仲間の中には、オス同士の闘いで勝ち抜くとどんどん顔が大きくなっていくのもいる。身体にまで階級が現れるように進化しているというから驚き。

実は人間の世界より露骨に差別が横行しており、それぞれに非情とも言えるような現実が存在していたりする。(露骨も非情も「人間的過ぎる感覚」なのだろうが)

つまり人間も動物である以上、階級を作り、差別をしたりされたりするのが自然なのかもしれない。いや、そうなのだろうし、実際歴史が物語っている。


同時に、人間世界は長い時間をかけてそうではない方向へと向かう戦いを続けてきたし、ここへきて更に「脱差別」へ加速しようとしている。

差別の非難に加え、多様化という幅広いフィールドをじわじわ感じていっているのも、実は「反動物」であり、「知性生命体方向へ」との指標だ。

「一介の動物」へ振り切れてはならない、人間にとっては蛮行に繋がっていく。
野蛮な方向へと退化してはならない、その退化は成り下がりだ。

という、全ては極めて知的進化を目指してのことだろう。


一度きちんと考えたいのは、一体人間ならではのどの感情がそうさせるのか。

それはやはり、相手の立場に立つという「思いやり」に他ならないのだろう。

自分にとっての苦痛は相手にとっても苦痛、自分にとっての喜びは相手にとっての喜び、だから相手も自分も差がなく同等にという、自分のことだけを考えるという価値観そのもののうち、何割をも相手に分け与えるように使うこと。

これはやはり、思いやりという言葉しか浮かばない。


つまり、究極の動物的思考は自分勝手であり、究極の知性というのは思いやりだとも言えるのではないだろうか。

posted by take at 18:46| 活動報告

2022年08月22日

捨てられない


僕は道具について、一般論的視野で持論を書いてきたことは何度かありますが、今日は自分の選択について少しだけ具体的に。


変遷としては(テナー限定です)

中学スタート時はコーンのテナー。
その後高校三年の秋までヤマハ。
受験からバック。
大学四年で新日本フィルに入ってから少ししてコルトワ(クルトワ)。
一年くらいでバックに戻る。
25才でN響へ入り、数年してコーン。
数年してバックに戻る。
31才で留学し、向こうでコルトワに。
帰国して四年くらいしてバックに戻り、以降20年ほどバック。(途中本当に一瞬トローヤ)

全く同じモデルや、同メーカー異モデルへ(いろんなバルブ)の買い替えは何度か繰り返してきました。

エドワーズやゲッツェンなどのアメリカ管、あらゆるドイツ管、ヤマハの新しいモデル含め、大半は必ず試奏はしてきましたが「これは僕は吹けないな」の判断はかなり早い方です。

その理由含め、今日書きたいポイントは「なぜバックに戻るのか?」


物凄く端的に書くと

「響きとして聴こえてくるとある成分、バックにしかないそれを捨てることができないから」

です。

そう、捨てることができない成分があるから。つまり、他の大半の楽器もとてもいい音ばかりだと思うくらい現代は百花繚乱だと思っていますが、バックにだけあるそれが手放せないからなんです。

なんなら「バックよりもこの特徴がいい音だなあ」と思ってしまう楽器もいくつもあるんです。

だからこのコアなこだわりがなければ、それぞれの個性の間でふらふら浮気のようにさまよい続けているのかもしれません。


しかし同時に、バック以外の楽器の音を吹いたとき(聞いたとき)、僕には「無い」と思ってしまう印象があるということにもなります。

それを良いだの悪いだのとやかく言うつもりは欠片もなく、あくまでも僕の中でのほんの一部、しかもかなりマニアックなほーんの一部分の印象でしかないのでしょうが。


「この部分がどうしても捨てられないんだよねえ」という価値観は、楽器だけではなく、僕の場合あらゆることにある気がします。

だからこそそれ以外の大半を諦めるし、だからこそ信じて付き合いを積み重ねていくことを選ぶのだと思います。

posted by take at 17:54| 活動報告