2022年08月31日

知らぬは自酷


とあるドラマを見ていて、あらためて「知らないことの悲劇」を感じることに。

借金を残したまま両親共事故死、しかも障害を持った祖母を唯一の身内として介護している若い女性。祖母は耳が聞こえず歩くこともできない。寝たきりで手話でのコミュニケーション。

状況としては悲惨過ぎる。

彼女は「孫には祖母の介護義務がない」ことを知らない。借金取りから逃げるような暮らしなため、誰ともコミュニケーションを取らない日々。よって教えてくれる人もいない。貧乏極まりない中一生懸命面倒をみている。

介護を放棄する手続きをすれば、祖母は無料で施設に入ることができる。面倒をみたいみたくないの話ではなく、施設の方がいろんな意味で祖母の暮らしも安定し快適になる。

つまり知っていたなら、直ぐにでも施設に入ってもらい、安心して暮らしてもらえる。

しかし彼女はその策を知らない。

残された身内は自分だけだから、自分が面倒みなければならないと思って、自分も祖母も悲惨な生活をおくっている。


知らないとはかくも悲劇的。

知ることの大切さを痛感するエピソードです。

昨日書いた「理想にふさわしいことを知ること」とは少し内容が違うが、それでも「知らないから先へいけない」「知れさえすれば大きく変わることもできる」ということは同じ。


「知らない」とは、何より自分に対して酷く、時には残酷にまでなることなんだなあとあらためて思う。

知る方法を考える、知る方法を知ることもとても大切だ。

posted by take at 21:12| 活動報告

2022年08月30日

比べ方


成長には「比較」は不可欠だ。これを否定するのは難しい。

かつては「周りと自分の比較」が主流だったが、現代はそうシンプルではなく、場合によっては「周りと比べるのではなく」という波も強い。

自己否定に包まれてしまわないよう、達成感からの自己肯定感を高めるため、周りとの競争はやめてという波。


本当に必要な柱はふたつではないだろうか。

ひとつは「過去の自分と現在の自分の比較」。これにより自己肯定感を高め、更に未来へと前向きに。

そしてもうひとつは「自分の理想と今の現実との比較」


この中でとても重要だと思うのが「自分の理想」

その理想に関して「知っていることが何か」というのはとても重要だと思う。知っていることと自分を比べるのが一番リアルで現実的であり、我が妄想にだけ頼るのは限界がある。

知らないから、なにを目標にしていいかよくわからず進んでしまうということもよくある話だ。日常生活のあれこれでも、やれることなのに知らないからやれてないことも山のようにある。


シンプルに、自分の現実(実力)をなにと比較しているのか?

質の低いものと比較しているなら、それ以上は行きようがない。

逆に、どんな質の高いものを知っており、それと比べているのか?

これらをよくよく考えると、最後は「高い理想を持っているのか?」の前に「本当に素晴らしいものを知っているのか?」にぶち当たる。


周りと比べることの是非ではなく、素晴らしいものを知っているのかいないのかの是非。そしてそれに対して憧れているのかいないのかの是非。

成長の度合い、その真実の現実的根っこはそれになる。

posted by take at 11:35| 活動報告

2022年08月29日

ねぇドラえもぉ〜ん


博多華丸・大吉が「ドラえもんからもらえるとしたら」というネタで漫才をしている。

「暗記パン」や「桃太郎印の吉備団子」などがあがり、最期はやはり「どこでもドア」

人生につきまとうプレッシャー、時間に追われることを考えたり、自由に世界中にたどり着けるというファンタスティックな状況を妄想すると、やっぱりこれだというのはわかるのですが、マジ現実的に考えたら「究極の自堕落人間製造機」なわけで、きっと有り難みもファンタスティックもなにもなくなり、とでも残念な結果を迎えるのははっきりしている。


じゃあ‥と考えてみる。

宝くじの取らぬ狸より自由な妄想だ。


僕が欲しいのは、そんなん無いだろうが

「生涯毎日上達機」

毎日上達が実感。死ぬまで上達が実感。

やっぱり、人間これ以上の喜びはない気がする。

それをドラえもんに頼った段階で、どうだろう?幸せ目減り?

上達に見合う努力をすることが条件ならアリね。

おっ、これは宝くじより取らぬじゃないかも!!

posted by take at 16:40| 活動報告

2022年08月28日

不幸比べ


ソクラテスの言葉の中に「そうなんだ」と考えてしまうものがあった。そうは考えたことがなかったとでもいうことなんですが。


「我々が皆自分の不幸を持ち寄って並べ、それを平等に分けようとしたら、ほとんどの人が今自分が受けている不幸の方がいいと言って立ち去るであろう」


これをどう解釈するのか、少し悩んでしまいました。

まだ未経験の不幸の方が、自分が既に経験した不幸よりきつく感じるということか。

平等に分けることで項目が増えてしまうことが辛いから、それなら自分のだけで充分ということか。

いずれにせよ「自分は世界一の不幸者ではない」ということだ。


世界一の幸せ者かどうかは、自分で決めれば(感じれば)いいのだが、世界一の不幸者でないことだけは確かなこととして、治癒力と共に生きていければそれでいい。

posted by take at 15:52| 活動報告

2022年08月27日

隣は1人


世の中を生き抜いていくのは、決して簡単ではない。

そら「なるようになる」というのはあるが、幾度となく迫り来るピンチに何も対応できなかったら、なった先がろくでもない結果になる可能性は高い。

幼き頃から若い頃は特に「どうしたらいいのかわからない」という場面は多かった。

無知だったのだ。

だからさんざん恥ずかしい思いもしたし、無知のみならず、失敗=無能と考え人生の結論が出たが如く落ち込んだりした。


そんな時助けてくれたのは、やはり隣にいた人だ。

「無知でもいい。これから知れば」「あなたが知らないなら、私が知っているから大丈夫」「失敗してもいいじゃない。次から頑張れば」

そして何より「あなたはそんなに悪くないよ」と。


最近特に思うのは、

「隣にいる人は1人でいい」

ということ。2人も3人もいらない。たった1人でいい。

その1人がいることが本当に大切なんだなあと、つくづく思うのです。

posted by take at 15:39| 活動報告