2022年07月26日

人間こその深愛


矢野顕子さんの古いアルバム「Super Folk Song」の中の一曲、「PRAYER」という曲を、20代の頃リサイタルのアンコールで吹いたことがある。

その世界観、ムードに強く惚れ込んでいた。


あれから30歳くらい歳をとり、久しぶりに聴いてみたら、あの時には全く感じていなかった歌詞のメッセージ、その深さに、自分の心が静かに沈んでいく瞬間がありました。


祈ることだけ
今強く願うことだけ
あなたが今日も、明日も、いつまでも
愛に包まれているように


パートナーか自分の子供か。いずれにせよ、本当に心からこう願っている人がいて、そして願われている人がいて。

その真実の愛の姿に、涙がこぼれそうになる。


自分に対してこう願っても、誰かを思うこと、思われることも実は簡単ではないのかもしれない。そんなにそこいら中にある心持ちではない気がする。

しかしこんな思い、深い愛こそ、人間らしいものじゃないだろうか。人間らしく生きたいなら、こう願い、願われよう、自らの愛情を育てていけたらいいなと思う。

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2022年07月25日

趣向の理由 立ち位置編


美術館を巡るうちに、自分が風景画を特に好むということに気づいていった。

ただ先日、風景画ばかりの展覧会を観に行った際は少々物足りなく‥‥

なぜだろうと考えてみたときに思ったのは、

自然の色を好むというのはそうだが、人物画や宗教画、静物画や抽象画の並ぶ中にある風景画を見たとき、特にその立ち位置に好感を持つのかなと。

特にリアルなものになればなるほど、その場所へと連れて行ってもらえてる気分になり、とても嬉しくなる。

それは風景画以外の絵と見比べて、その感覚になることが、特に嬉しいということもあるようだ。


全然違う話になってしまうが、麻婆麺にご飯を入れて猫まんまにするのをテレビでやっているのを見て「このアイテム、めちゃくちゃ美味しいだろうになぜメジャーにならないのかなあ。そもそも麻婆麺が麻婆飯よりマイナーだなあ」と考えていた。

お行儀が悪いとされるような組み合わせでも美味しいものはいくつかあるし、麻婆麺なん‥かなり美味しいのに‥

それはやはり、あまたあるメジャー料理の中でたまに食べると美味しいものという感覚なのかもしれない。

そう考えると、専門店まであるメジャー料理というのは、まさしく選ばれし美味、圧倒的実力なんでしょうね。


坦々飯なんてのもきっと料理次第でかなり美味しいだろうに、こちらは圧倒的に坦々麺ですしねえ‥‥

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2022年07月24日

運命の出会いに感謝


僕は「限られた人と深く長く」というスタンスが好きで、きっと付き合う人間の数にも許容量の限界がある。

「きっと」というのは、これまでの人生の中で、パンクしそうなくらい人が増えたことはあまりないから。

ドイツから帰国し、アマチュアオーケストラや吹奏楽団からの依頼がどんどん来て、6団体ほど行くことになって、流石に頭から煙が出始め、ブロカート一本に絞ったときくらいか。


小学校は1学年3クラス。6年間でクラス替え2回。

中学も1学年3クラス。40人のクラスのまま持ち上がり、クラス替えなし。

高校は13クラスの中に1クラスだけの音楽科、34人で3年間持ち上がり。

大学のトロンボーン科は同級生が1人だけ。全体でも10人程度。

新日フィルのセクションは4人、N響に来てからは5人ないし6人の仲間。

ジパング4人。

東邦音大は平均8人くらい、沖縄県芸は2人から4人。


とにかく人数が限られている。大人数や、頻繁に人が変わるというのを経験していない。


N響は長くなったが、同じ気持ちとテンションでトロンボーンと向き合っている今の仲間とも、最低でも20年は付き合う結果になる。長い人はもっと‥‥

彼らには、出会ってくれて本当に有難うという気持ちが物凄く強い。

地球上には70億以上の人がいるのに、トロンボーン奏者も相当いるだろうに巡り会えた極めて限られた人。

生涯を共にする家人はもちろんだが、N響セクションの人たちも運命の出会いとしか言いようがない。

何より、尊敬できる人たちばかりなのが幸せ過ぎて。

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2022年07月23日

明確な完成図


最近の生徒たちの伸びが嬉しくてたまらない。

もれなく伸びたと感じられるということは、共有した「やり口」が真理に近いことを証明している。

今までも、新しいアイデアによるちいさな変化は定期的にあった。しかし今回のは伸び率がそれなりにダイナミックだ。

是非この勢いのまま、更に飛躍したい。


まだまだクリアーすべき壁は多方面に渡っている。その壁を越えていくには、それぞれに適したやり方が必ずあるはず。

方法もだし、求め方もだし、言葉もだし、あらゆることがツボを突くように的確でなくてはならない。


反省すべきは、彼らが伸びてみて初めて感じる過去の未熟さもあったりする。上手くいってないことはわかっても、どの程度というのはやはり高き指標との比較が無いとなかなか理解できないものだ。

でも教師である以上、それではダメだ。

彼らがどうなっており、どこまでどうなるべきなのか。

最後は本人の理想こそがものを言うが、その手前で、彼らの目の前にいる教師の中には明確に完成図がなければならないのだと、改めて思いました。

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2022年07月22日

認めてはならない過去


人というのは本当に良いことだけを記憶に残そうとするもんだなあと、仲間と思い出話をしながら思う。

嗚呼、そういやそんな嫌なことあった気がする‥‥


もちろん嫌なことをひとつも憶えてないわけではない。

しかしプチからモルトまで経験した嫌なこと、辛いことのほとんどはどこかにしまい込み、なぜだか特に語りたくなるいくつかの良いこと、面白いことを繰り返し発信しながら、反芻による記憶として、過去の総括をしていたりする。


「昔は良かった」という言葉は、そうやって出てくる。

しかし現実的には、良くないことは山のようにあった。それが浄化され、現在ではNGになったこともかなり多い。

「昔はおおらかで良かった、こんなに世知辛くなって」と嘆く人はいるが、あの時、確実に良くない人はいたし良くないことが行われ、そして辛い思いをしている人はいた。

それは、あんな時代だったから仕方がないと済ませていいことではない。

良くない人の良くない表現に周りが合わせていたから。その時はそうしないとその環境が守れないと思っていた。

しかし周り中を従わせるような悪行が良いわけがない。

時代のせいにするのではなく、どんな時も決して認めてはならないこと、ならない人はいる。

それは今いなくなって浄化されたように見えても、それが黒歴史であることは変わりない。


昔は良かったし、はっきりと、昔は良くなかったのだ。

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