2022年06月30日

先入観を持ってもらうために


グッとくる演奏ができる人というのは、その人間もグッとくるような魅力を持っているでしょう。

そもそも演奏からグッときたなら、それだけでその人の人間性をそう評価するでしょうから。先入観ができるというか‥‥


最近テレビで活躍している芸人たちを見ていて思うのは「この人(人たち)は面白いし実力があると一度認知されること」が大事なんだろうなあと。

見てるこちら側に先入観を植え付けるみたいな。

そういう意味でM1やキングオブコント、女性だけのコンテストなどで賞を取ることは、実力の有無と同じくらい重要かと。そうすると、あれこれ番組に出られることにより、先入観のチャンスも増えるから。

そんな賞を取りその後テレビで見て「面白くないなあ」と思っても、出続け経験値が上がってくると、トークも上手くなっていく。そうなったとき「実は一度認められた面白い人」という先入観こそがその後の笑いの派生に追い風を吹かせる。

よく見ると面白いのに「認められてないから面白くないだろう」という、それこそ先入観で損をし続けている人もいる。


こじつけるつもりではないのだが、「この人はグッとくる演奏をする人だ」という先入観につながるようなエスプレッシーヴォが一度でもできるというのは、とても大切なことなのでしょう。

そういう意味で、自分の演奏が他人の心にきちんと響くのかは、常に強く意識するべきなのだと思う。

posted by take at 20:55| 活動報告

2022年06月29日

とうもろこしの天ぷら


初めて「とうもろこしの天ぷら」を、居酒屋メニューで見た時は少なからず驚いたものだ。

とうもろこしを揚げる? 新しいなあと。

それまでは焼いたものやスープでした食べたことがなく、そんなものだと思っていたから。

で、食べてみたらその美味しさにチョー嬉しくなり、一気にテンションが上がったのを覚えている。


久しぶりに食べてみた。

やっぱり感動的に嬉しくなりますね。

焼いたのをかじるのと違い、身だけをいい大きさに塊としてあげてくれているので、その食べ方自体が贅沢な一品に感じる。

更に塩を少しつけるとこれがいいアクセントに。

「これって、昔スイカに塩かけて食べてたみたいだね」


幸せなアイテムである。

posted by take at 18:59| 活動報告

2022年06月27日

息を探す


「本当はどういうニュアンスの息で吹きたいのか」

ということを求めることの重要性に気づいたとき「今まではそう吹いてこなかった」ことに気づく。

優先してきたことが結果違っていたのだ。

どんな音でとか、音楽に相応しいニュアンスの息というよりも、楽器との付き合いの都合とのバランスで選んだもので吹いてきた。

しかし誰にも「本当はこういう息で表現したい」というのがある。そこに理想の結果が存在していたりする。


それを探すことこそが、本当の自分の欲求に最も近づく道だと気づいた。

私たち管楽器は、息で表現しているのだから。

posted by take at 20:14| 活動報告

2022年06月26日

常に全てを使い


起きている間は常に、今自分が持っている力を全て使って生きる。

夜になったらくたくたになって寝る。

よく寝る。

そして復活するが如くエネルギーを充満し起きる。

また再び、力の限り生きようとする。

笑い、泣き、怒り、悩み、苦しみ、思い、想い、また笑い。

よく食べ、よく飲み。

よく聴き、よく吹く。


決して「まだ本気出してない」とか「本当はやればできるんだから」とか言わないよう、持てる力を全て使って。

posted by take at 20:07| 活動報告

2022年06月25日

奇跡復活


僕は音楽の演奏に最も必要なのは「感動」だと思っています。

それはとてもとても高いハードルで、特に昨今、努力と叡智の結晶としての結果の素晴らしさがあちこちで花開いているにも関わらず、涙が流れるほど心から感動する頻度が下がってきた気がする。


料理を食べてもそう。

昭和のあの時代より、大半が圧倒的に美味しく、なんなら感動するほど不味いもの(?)に出会うのは困難になった。

それなのに「美味しいなあ」と感心はしても、身体が震えるほど感動まではなかなかいかない。

自分が歳をとったから?
クオリティの高さに慣れたから?

それもそうだと思うが‥‥


なぜか?

高いクオリティは全ての人にとって日常の当然になった。これは不快が減るというのと同居している。

もう一度書くが、これは多くの人々の叡智と努力の賜物だ。それはそれは人間的であり、それこそ感動するべきこと。讃えられて然るべきことだし、非難するのは全くもって違う。

それでも感動が減るのは、一緒に何かも減ったからだ。


それは「奇跡」だと思う。

演奏の感動に必要なのは、奇跡と感じるほどの瞬間だろう。


ではなぜ減ったのか?

多くの人が、より理屈を学び、過去のあらゆる素晴らしいものにある「文句の付け所」を排除し、そのせいで画一的になっていき、冒険をしなくなり、マーケティング重視で、更に情報も世界共通で手に取りやすく駆け巡り、とにかく正しそうであり、降りてくる感性こそを最優先にしなくなり‥‥

そうやって奇跡は影を潜めてきた。


そろそろ奇跡復活のときにならないかなあ。

そのためには、セオリーや理屈を無視した、反骨冒険テイストとも言える大胆な「個人的啖呵」が必要だ。

それは鬼のような勇気を持たないと発動しない。


まあ、言うならお前がやれよですよね。

posted by take at 21:45| 活動報告