2022年05月13日
さらば指揮者
今世紀も後半くらいになると、オーケストラは再び指揮者無しで演奏し始めるのではないだろうかと妄想している。
再びというのは、そもそも合奏体の初期は指揮者は存在していなかったから。
リュリのように太い棒で床をどんどんやっていた人もいるようだが、おそらく初期はとにかく演奏家だけでやろうとしていたはず。そもそも誰かが前に立ちという発想自体が無かっただろう。
しかしテンポキープ含め難が出てくるため「誰か前に立ってテンポ出してくれよ、とにかくみんなでそれに合わせるから」となったのだろう。
これはある意味、責任転嫁。
本来演奏家の中にあるべきビート。最初にスピードを共有できれば、せーのでスタートして進めるはずだから。(僕の長いN響人生の中で2回、アシュケナージ途中退場によりチャイコフスキーの4番、イオン・マリン途中退場によりブラームスの四重奏曲のシェーンベルク編をコンマスのリードでやりきりました@名演)
そして徐々に前に立つ人にも能力の差が見えてくる。
良いテンポでいい流れを作る人を讃える流れと同時に、指揮者の中にもオケマンに対して高圧的態度で接する人も出てくる。
上下関係が自然と派生。
20世紀も後半になるとオケマンも技術が上がり、更にベルリンやウィーンのように物凄くうまい集団が出来上がるにつれ、力関係も変わってくる。場合によってはオーケストラ側が高圧的で、指揮者の方が緊張するような環境も。
21世紀になり、いろんな意味で合奏体は洗練されて自分達だけで乱れなくなりつつある。
そのうち、オケマン一人一人が更に洗練された音楽性で表現したことに対し、周りも完璧に同調しながら、更に曲全体を通して筋道が立てられるくらい個人の能力が進化。
その時オーケストラは指揮者を捨てるのではないかと思っています。
「たった一人の人の音楽性に支配されるなんて旧態然だ」
僕自身そんな凄いオケマンのハイブリッドな合奏を、できるならやってみたいし、そもそも聞いてみたかったりしています。
posted by take at 10:33| 活動報告