2022年05月17日

依存型︎⇔計画型


以前から全く理解できてなかったわけではないが、いよいよ教育の根幹に関して、求めることの内容の実益化が必要だと、とても真剣に考えています。

今まで伝えてきたことが間違っているとは思わない。

しかし「伸びる人」と「伸びない人」のその真理は、やはり思考のタイプと、聡明からくる判断力、行動力という中身であり、そこに辿り着かないといくら正しいことを伝えても、結果の限界は超えられないから。

僕がやり方をわかっていても、それだけでは駄目なのだ。


今の僕が思う根幹とは「依存型ではなく、計画型として生きてもらう」であり、そのための「要求することの的確なポイント」を、僕こそが超的確に理解しなければならない。

ひとつ言えるのは「教え示したり、経験を促すだけでは駄目」ということ。

それだけでは全く足りてないのだ。

とにかく、計画する人になってもらい、その思考で取り組んでもらわなければならない。そういう頭でいてもらわなければ、どうやっても無理だとすら思う。


さあ、どういう内容をどう投げかけるのか。

それこそ僕の計画力が問われている。

posted by take at 09:28| 活動報告

2022年05月16日

アヴェマリア


グノーの憧れが生んだ判断力と行動力に最大の敬意を贈りたい。

素晴らしいバッハにつけたアベマリアは、宗教の枠組みを超えて幸せを与えてくれる。


シューベルトのものも、音楽こその喜びに満ち溢れている。

その幸福に満ちた前奏はあまりに美しすぎて、旋律を待たずして楽園へとたどり着けるほどだ。


名曲揃いのアベマリアに共通するのは、とにかく前奏が既に素晴らしいこと。カッチーニの短調は、悲しみの聖母のような愛と慈しみが滲む。

それでも音楽は常に美しく、何があっても生きるのだと語っているようだ。


posted by take at 10:32| 活動報告

2022年05月15日

バッハに浮かぶ


バッハの平均率クラビーア曲集第一番に心洗われる。

グノーのアベマリアの伴奏と言ってしまえば少し軽く感じてしまうか。

いや、伴奏とかそうではなく、この余計なものが全て削ぎ落とされた音楽は緊張や疲れ、人生から完全にいなくなりはしないネガティヴな思考、定期的に現れるそんな気持ちの曇りをを綺麗に流してくれる。


横たわり、目をつむり、移りゆく和声を淡々と刻む音たちの歩みに、静かに心を委ねるだけ。

このバッハに自分をゆったり浮かばせるだけで、人として音楽と生きる幸福がじゅっと湧いてくるものだ。


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2022年05月14日

結局進化


食の世界があらゆる方向に広がり、まだまだ知らない美味しいものが登場し続けるにつれ、人間社会の「貪欲なまでの多様化への進化」を感じざるを得ない。

もう充分美味しいもので溢れ、そして不味いものは淘汰されていっているのに、まだ新しい組み合わせ、調理による驚きは続いている。

僕は時々「そこまでやる必要が?」なんて思ったりするが、新しい世代だって当然オリジナリティを出す本能はあるわけで、必然的な流れなのだろう。より多くの人の幸せに貢献していることは確かだし。

飽和状態に見えながらも、おそらく全体は収まるべきところに向けて進化しているようにもうつる。


そう、やっぱり進化するのが自然だ。

だから、僕も僕の中での自然さで、出来る範囲で変わっていこう。

「もういいや」は、決していらない。

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2022年05月13日

さらば指揮者


今世紀も後半くらいになると、オーケストラは再び指揮者無しで演奏し始めるのではないだろうかと妄想している。

再びというのは、そもそも合奏体の初期は指揮者は存在していなかったから。

リュリのように太い棒で床をどんどんやっていた人もいるようだが、おそらく初期はとにかく演奏家だけでやろうとしていたはず。そもそも誰かが前に立ちという発想自体が無かっただろう。

しかしテンポキープ含め難が出てくるため「誰か前に立ってテンポ出してくれよ、とにかくみんなでそれに合わせるから」となったのだろう。

これはある意味、責任転嫁。

本来演奏家の中にあるべきビート。最初にスピードを共有できれば、せーのでスタートして進めるはずだから。(僕の長いN響人生の中で2回、アシュケナージ途中退場によりチャイコフスキーの4番、イオン・マリン途中退場によりブラームスの四重奏曲のシェーンベルク編をコンマスのリードでやりきりました@名演)


そして徐々に前に立つ人にも能力の差が見えてくる。

良いテンポでいい流れを作る人を讃える流れと同時に、指揮者の中にもオケマンに対して高圧的態度で接する人も出てくる。

上下関係が自然と派生。


20世紀も後半になるとオケマンも技術が上がり、更にベルリンやウィーンのように物凄くうまい集団が出来上がるにつれ、力関係も変わってくる。場合によってはオーケストラ側が高圧的で、指揮者の方が緊張するような環境も。


21世紀になり、いろんな意味で合奏体は洗練されて自分達だけで乱れなくなりつつある。

そのうち、オケマン一人一人が更に洗練された音楽性で表現したことに対し、周りも完璧に同調しながら、更に曲全体を通して筋道が立てられるくらい個人の能力が進化。

その時オーケストラは指揮者を捨てるのではないかと思っています。


「たった一人の人の音楽性に支配されるなんて旧態然だ」


僕自身そんな凄いオケマンのハイブリッドな合奏を、できるならやってみたいし、そもそも聞いてみたかったりしています。

posted by take at 10:33| 活動報告