2022年04月20日

「楽譜の通り」の価値


「学生たちは音楽大学で、なにを学びなにを求め鍛錬していると思いますか?」という質問を、音大に関わりのない人に聞いたとする。

「自分のしたい表現を極めようとしたり、高い技術や、更なる素晴らしい表現を目指して‥」などと答えるのではないだろうか。


決して意地悪ではなく、そんな人に「何気に楽譜に書かれている通りに演奏できるようにということに、時間を割いてたりするんですよ」と言うと、彼らは驚いたり軽蔑したりするかもしれない。

アマチュア奏者なら「それなら僕らでもやってますよ(レベル低くないですか?)」と言いそうだ。

しかし「それなら」と、本当に楽譜の通りに正確にと要求したらどうなるか。

音程、リズム、ダイナミクス、アーティキュレイション、音のフォルム‥

それは何百時間かかっても実現するのが困難なくらい、途方もなく難しいことだったりする。


学生たちは決して楽譜の通りに演奏しようとしてないのではない。しかし結果的になってないだけでなく「楽譜の通り」に対する欲求ボーダー、要求ボーダーが低くなっていたりする。

それは何故か?

客観視能力、自己観察力の低さももちろんある。

しかしそれ以上に、

「本当に楽譜の通りに正確に再現できたなら、相当素晴らしい表現になっている」

ということを知らないのだ。

というか「え?そんなこと」と言うアマチュア奏者と同じ気持ちで、潜在的に「楽譜の通りだけだと大した表現ではない」という価値観すら持っていて、それ故に「正確を求めること」に対し盲目になってしまいがちになっている。


いやいや、楽譜のとーーーーーーーりにきっちりきっかり正確に吹けたなら、それはもう相当素晴らしい表現が実現できているのです。



もちろんそこがゴールではない。

それを超えた表現こそ、更なる賛辞と共に求められたりする。

しかしそれは正確な楽譜に足されて初めてなされるインスピレーションであり、もし引かれている(到達していない)のだとしたら、聞き手の喜びには決して貢献しない。

それは何より不安定に聞こえるだろうし「わかりにくく」なっているからだ。


私たちの目の前にある記号は、明確明瞭にその通りに正確に再現されて、初めてわかりやすいというゼロ地点に立てるのだということ。そのゼロ地点が既に素晴らしい表現になっているのだから、その価値はなにものにも変え難いのだと、音楽大学に通うものこそ心底理解したい。

posted by take at 14:40| 活動報告