2020年02月04日

本質と演出


私たちの生活をとりまく全てのことに、本質と演出があると思います。


演奏の本質とはというのを考えたとき、「あらゆるやり口があり、多様な価値観を受け入れる素晴らしい懐が音楽」と理解した上でも、時を超えて残る数少ない表現というのは、やっぱり存在すると思います。

長さに限らず曲の後半、最後の少し前辺りだろうか、クライマックスのタイミングで、積み重ねてきたものが心震える感動を呼ぶ演奏。そんな演奏こそが、クラッシック音楽の本質だと思います。


しかしそういう演奏にならないものは多い。一流といわれ人気のある指揮者、演奏家でもそうだったりする。

彼らの大半は、本質ではなく演出をやりたがっているように感じる。

演出というのは、本質こそがしっかり表現なされた上にコーティングされるようなものだと思う。しかし演出を駆使することが、本質だと勘違いしているように見えるのです。


彼らの共通の特徴は、「出口がない」ことと「新しい思いつきが散見する」こと。

本質を柱にぶれなく求めていけば、クオリティの差こそあれフォルムが変わることはないし、進む道は迷わずにすむ。

しかし本人は演出だとの自覚はないし、その表現こそが本質だと思っているのだろう。とにかくスタンダードから学ばず、自分の色をアンチテーゼや感覚に対する刺激だけから探そうとする人は、そのやり口のアイデアから突発的に現れる新鮮な表現の度に、アゴーギグや流れを変えたりする。

長い付き合いになった指揮者の中にも、若い頃も今も、同じように出口のない世界をさ迷っている人もいる。「本当に無い物をねだり」的な表現探し。効果という虚飾から抜けきれないような。


本質とは本当に素晴らしい領域。それを見つめ、正確な方向を向き、ある意味魅惑的表現は捨てながら進む勇気と、人間の真の喜びの理解、コミュニケーション力を持たなければならない。


楽聖にも言うのですが「瞬間末端細部エスプレッシーヴォは麻薬みたいなもの」。勇気をもって捨てるべき表現はあるし、本質とは一曲の真ん中を一本貫いているもの。

それさえ据えられれば、演出はあれやこれやも許容できたりする。


所詮演出とはそれ以上でもそれ以下でもないが、本質とは無限の力を放ちながら、私たちが人生の時間をかけて辿り着いてくるのを待っている。


N響定期練習

posted by take at 16:38| 活動報告