2020年01月31日

鳥唐揚変遷


「せんせえ、十羽ひと唐揚げって凄くないすか?物凄い量。鍋でかいんすかね??」

それ言うなら、じゅっぱひとからげね。

「???どういう意味ですか???」

自分で調べなさい……という会話があったようななかったような。


若者たちは総じて唐揚げが好きな印象。学食でも唐揚げ丼は超人気メニュー。

僕はもちろん嫌いではないが、凄く好きかというと、過去を振り返りはじめ……


なんか時期的にムラがあるんすよね。とにかく好きで好きで、「ああ、俺って鳥唐揚げ好きなんだなあ」と自覚した時期あれば、今なんかはまるでそうでもない。

ただ、長い人生いろんなタイプを食べてきたので、唐揚げならどれでもってわけではない、なんて気分になってきたことは確か。

ジューシーで身ぶりよく、ぷりぷりむにむになのはいいが、硬く揚がりしかも肉がショボいのもあったりして。

「こりゃひどいな、唐揚げって出したら誰でもなんでも喜ぶと、十把一絡げに思ってもらっちゃ困る。誠実なる素材選びと揚げ方をしなさいな」と言いたくもなるのだ。


まあ、肉の趣向が年と共に変わってきたのもあろう。

僕は若い頃から牛派ではなく鳥派だった。その後羊派に移籍し、最近は豚派になりつつあるからだ。

なんだか、かつては他の何より気に入ってたのに今はそうでもなくなったって、少々淋しい気もするが、この際唐揚げは若者に任せて、僕は一羽ひと煮あげサムゲタンを楽しむ日々にしたいと思います。


え?ブルジョア??


はい、今後はキャラ上げでまいります。


N響定期

posted by take at 15:48| 活動報告

2020年01月30日

若者に本当に必要なこと


綺麗事に聞こえるかもしれませんが、正直な気持ちを書きたい。


「若者に必要なことは、素晴らしい大人と出会うこと」

これは年長者が教えてくれたことでもあり、決して若くない僕の逃げられない課題になっている。



教師たちの愚痴はたくさん聞いてきた。簡単に酷く言うと「学生の質が低い」ということを。

僕は教育人生の途中で気づいたのだが、私たち教員が願う理想的な学生、それに近い学生というのは、人数的にはとても限られている。大半の若者がそうではなく、教員たちは「なんで〇〇しない?!」と憤慨している。

自分が若いときは違った。〇〇したから今の自分があるわけだから、そうしなければ君の希望は叶わないぞ、とエールのような文句だが、同時に自分がどう未熟だったかは忘れており、頑張った部分、変われた部分だけを思い出したていたりする。

また、ときにレベルの高い生徒に出会い、その人が成果を手に入れる結果を出すと、そこが基準になり、あとの人たちへの要求がどんどん厳しくなっていったりする。

レベルアップには不可欠であり、教師も時間と共に変化したりするので自然な道筋だとは思うが、同時に「“教師が期待する成果”主義」というのは、同世代全体の現実からすると、非現実的なのだと思う。


そこで最初の理念か出てくる。

なぜなら

「教師は素晴らしい生徒に出会わなければならない」というわけではないが、「生徒は素晴らしい教師に出会わなければならない」のだから。

素晴らしい若者に出会えたならラッキーだが、教師としてそうでなければならないという話はない。

しかし、若者は駄目な教師でもいいとはならない。若者は素晴らしい教師、素晴らしい大人と出会わなければならない。それは間違いない。

世の常だが、大人が駄目だと、反面教師含め立派に育つこともある。

しかし教員を定年退職したとある年長者の言葉は、痛々しく響くものだ。


「今思えば、たくさんの子供たちをつぶしてきてしまいました」


もちろん彼は、この自己否定と共に今なお変わろうとしている尊敬されるべき人間でもある。

若者に本当に必要なことはと説いたあの価値観は、実はそんな人の言葉なのです。


N響定期練習、レッスン
親子もそうなのでしょう。

posted by take at 08:59| 活動報告

2020年01月29日

攻める


攻めるという取り組み、攻めるメンタルの重要性を、何よりも感じている。

楽器の演奏だけではないだろう。成果を成している人、成功している人は皆、人生の時間攻める姿勢が根底にあるはずだ。


逆に攻めてないとは、「守りに入っている」となる。ただ、少数の成功者以外の多数がそうなのかといえばそうではなく、実は攻めるというスタンスを知らないで克服しようとしているのだと思う。

攻めることを知らない人たちは、あらゆることにリミッターがかかったフィールドの中だけでまとまろうという、ある意味内側にベクトルが向いたようなことになっているのだと感じる。

演奏でいえば、音を並べることには攻めているのかもしれない。次にリズムや音程あたりで止まっている。

実は正解の無い領域、ダイナミクスとかアーティキュレーションに関しては、本来は「どこまでできるか」戦いを挑むようなものであり、まさしく攻めるものなのだが、大半の奏者はなんとなくの範囲で泳ぎそれ以上は行こうとしない。

そこを攻めると、初めて見えてくる魅力があり、感性に、より分かりやすい感じやすいものが現れるし、それに伴い技術が上がり、サウンドも格段に良くなる。

それを知らないで取り組んでいたりするのだと思う。

やはりベッケさんを思い出す。しつこいようだが、あの音と技術は、彼が攻める人生を送ったから現れた結果なのだ。


N響定期練習。川越へ

posted by take at 21:52| 活動報告

2020年01月28日

美しいとは


美しさというのは「透明感」と同居していると思います。


【透明感】
1 物体の、すきとおった感じ。「ガラスの透明感を生かしたデザイン」

2 にごりがなく明るい感じ。「透明感あふれる歌声」「透明感のある肌」


ということは、美しい音とは「すきとおった、にごりなく明るい音」となる。


ふむ、そうでしょうね。


すきとおった音とは、とにかくスムーズに息が流れ、抵抗感が音に出ていないものでしょう。極めてぶれない息が、地平線へ向かうが如く真っ直ぐ入り続けるみたいな。

にごりなくとはノイズがないということなので、その楽器が素直に響ききり、その中心を、やはり一直線の息が貫いているイメージ。

明るい音とは、高次倍音が多く鳴っているということで、これはやはり抵抗の少なさが音に出ている必要が。


肌の美しさを語るとき、キメの細やかさというワードがでる。これは、物凄くアップしたら見える溝や凹凸が、とにかく細かいから、ツルツルに見えるということ。

音でいえばやはり振動なのでしょう。

“ブルブル”のブとルの間隔が素早く全体として細かい。揺れ幅も少ない振動。

美しさを求めるなら、これらを意識せざるをえない。


大塚へ

posted by take at 00:18| 活動報告

2020年01月27日

ウィークポイントの自覚


人には必ず短所がある。ウィークポイントともいうもの。

それを克服するためには、まず自覚が必要。わかってないから改善できないというのは人類の常だ。

ただ、何度か指摘されたり講評されたりし、「ひょっとしたら、自分はそこがダメなのか?」と感じたとして


「自分は〇〇が苦手なんです。どうしたらいいかわからないんです」


と表明することは、ウィークポイントを自覚していることにはならない。

黙ってそれを克服すべく、何かしらの工夫を伴ったトレーニングをして、そこで初めてわかっているとなる。

出来てないそのことが、周りにだけでなく自分にとっても嫌なことだと思わないと、そもそも自分のウィークにはならないわけで、嫌になったら、まずは何かしら打破しようと方策を考えたり、行動に移すのが人間。

その段階では、自分で「苦手です」とか「わからない」とは言わないはずなのです。

もちろん、あれこれ試したが打破できないこともあるのは確かですが、そこまでいけばきちんと相談するのでしょう。


今日書きたいのは、生徒含め、ウィークポイントを自覚しているとこちらが思うのは、得策ではないと思うということ。

自覚してもらうため、工夫や克服への行動へと進んでもらうための投げ掛けをする必要を感じているということです。


自分の短所を自覚できる方向へと行動できることは、長所なのでしょう。

そして短所が自覚できないことは、大いなる短所なのでしょうね。


帰京

posted by take at 21:52| 活動報告