2019年08月26日

吹きやすさと育ちやすさ


パイパースに、今世界が注視する若手イギリス人名手、ピーター・ムーア君のインタビューが載っている。

共感できることが多く、楽器のチョイスに関していい感じの無頓着感(あくまでムード)が出ているのも、今の僕にはフィットする。


あらためて考えたのは、彼の言うシンプルッシモなワード、「とにかく吹きやすいものを」ということ。

実は、吹きやすいものというのは「長く吹いているもの」と考えることができると思います。

ピーター君も、10才前後で出会ったヤマハをずっと使っているだけ。だからそれや、それと同じようなものが吹きやすいのでしょう。

新しい楽器を吹いたとき、「あ、これ自分のより吹きやすい」と思うことがありますよね。ただそれは、自分の楽器の吹きかた(息の量や送りかた、振動のさせかた)で新しいのを吹いている印象だというのが現実。

新しいのに変えて2週間くらいで大抵第一スランプがくるのは、新しい楽器の吹きかたに変わるからで、「最初は凄く吹きやすくていいなあと思ったのに」と自分に言い訳しても、そこでの印象がその楽器の現実。というか自分の現実。

楽器がちょっとサービス的に、新鮮さをもって自分を喜ばせてくれただけ。

そこから時間をかけて慣れていき、自分の力でこそ本当に良い音、吹きやすさへともっていかなくてはならない。

そういう意味で、長く使った楽器こそが、我が振動を知っているわけで、考え方次第で「一番吹きやすいもの」と言える。


「実は気に入ってる部分がありそれなりに使っているが、吹きにくさもある」というのは、実はその楽器に「欲しいけと無いなにかがある」ということになり、何ヵ月経っても慣れないとしたら、それは吹きやすい楽器とはならないのだと思います。


現代の楽器は、大半が最初から吹きやすい、つまりオールマイティーなテイストなわけで、バランス良く幅があり、自分さえしっかり慣れていけば問題ないものばかり。

それでも慣れないなにかがあるなら、それは自分にとっては吹きにくいもので、ある意味開拓の余地が限られているとなります。


どんなマウスピースや楽器でも、それなりに吹きやすいと選んだなら、そのポテンシャルを信じられるような人間になる。そして次にやるべきことはその道具で、自分こそを素晴らしい音が出せる息と唇に仕立てていく。

つまり、クオリティは100%自分側にあると考えたい。(数十年前は、楽器のせいでもありました)


音も演奏も、自分だけが作っていくという考え方ができるようになることが大事かと。


吹きにくいと感じることが継続されているなら、それは必ず道具に原因がある。吹きにくい道具を無理矢理「吹きやすいはずだ」との方向へもってこようとしている。

その「足りてない何か」を見ないで、全部自分が悪いと考えるのは、それこそその考え方に問題がある。



長く使ったものが吹きやすいとしたら、それと共にどんどん音を育てていきたい。そう思える道具と、長く付き合うような自分でありたい。

自分こそをきちんと育てるために。


N響オペラ練習

posted by take at 17:17| 活動報告

2019年08月25日

ポルタメンター・グリッサンダー


ブロカートの合奏。

美しい旋律を「よりエスプレッシーヴォで感情的に歌いましょう」との気持ち強く、気づくと


「ポルタメント、入れたくなったらガンガン入れていいですよ」


と、バイオリンセクションに治外法権を発令してました。

本当は「ここにこれくらい」と指示した方がよいのだろうが、個人のエスプレッシーヴォを最大限表出してほしく、突き動かされて入れたくなったらご自由にどうぞと。


「カラヤンもバンバン入れてたね。あんたも好きねぇって感じだね」


調子に乗り出た言葉に、団員からは大爆笑をゲットすることができました。



ポルタメント、グリッサンドと言えば、我がトロンボーンである。

なんならポルタメントを全く入れずに吹くのがとても難しい楽器。グリッサンドが好きでトロンボーン吹いてますって人も多いはず。

しかしクラッシックの表現では、クラリネットのビブラート同様基本歓迎されない。

なぜなら、どうしてもユーモラスな印象になってしまい、作品に内在する感情とかけ離れてしまうから。

ただ同じ曲を弦楽器で演奏した場合は、感傷的エスプレッシーヴォとして歓迎されることも多い。

そんな弦楽器も、20世紀よりは入れない方向に進んでいる気がします。

いくつかの理由があるのだろうが、しかしオーケストラの楽器の中ではそれこそ治外法権として認められている弦楽器群なのだから、うまいこと入れるような、そんな波がまたこないかなあと思ったりします。


できまくるトロンボーンはやれなくて羨ましいんだから。


N響オペラ練習、ブロカート

posted by take at 13:21| 活動報告

2019年08月24日

視野


視野の広さって大事だなあと、強く思う日々です。


大抵の人にとって、自分が携わっている環境は、ある意味限られた空間であり、限られた人間関係であり、限られた内容だ。

そこで切磋琢磨し、集中し、限られたものを信じ、ひとつのスタイルと向き合うことになる。

その環境が正解だ不正解だ、付き合う人間が、スタイルが正解だ間違いだという見つめかたは、実はあまり得のないさまつなことで、とにかく自分こそが広い視野で生きているのかが、とても大事なのだと思います。


もし視野が狭い人なら、どこのどんな環境でもなかなか成果は上がらず、実りの少ない時間になり、無益に悩んだり人とぶつかったり、なんならマニアックやアブノーマルな方向へ進んだりするのではないだろうか。


現代は情報過多と言われるが、自分の視野が広ければそれらをうまく利用し、チョイスし、自分の環境の中において最良な方向へと育てていくのでしょう。

視野の狭い人は、宝の宝庫とも言えるその情報を利用しようとせず、旧態然とした我が凝り固まりだけで進もうとしたり、たくさんの情報をうまく仕分けできずパニックになったり、新しい情報にのみ依存し過去を無意味に否定したり、なんなら情報は持っているが自分は低いレベルしか表現できないくらい、それを利用できないかとなっていくのだと思います。


情報が限られたかつてだろうが、世界とどんどん近くなっている情報のるつぼの現代だろうが、そして未来がどうなっていようが、どの時代も視野の広い人が成果をあげ、狭い人は自分のいる環境の中で悶々と生きてしまう気がします。


視野が広いというのがどういうことかは、これまた広くて深い意味合いがあり難しかったりするのですが。


レッスン

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2019年08月23日

情熱の松方コレクション


国立西洋美術館にて『松方コレクション展』を観賞。気になっていた展示、ようやく観ることができた。

有名なコレクターなんだろうなあと、松方さんが誰なのかもあまりわかっておらず。

その波乱万丈、ダイナミック過ぎる人生を目の当たりにし、強靭な魅力を放つ絵画、彫刻共々、圧倒されまくる時間となりました。


『神戸の川崎造船所(現・川崎重工業株式会社)を率いた松方幸次郎(1866−1950)は、第一次世界大戦による船舶需要を背景に事業を拡大しつつ、1916-1927年頃のロンドンやパリで大量の美術品を買い集めます。当時の松方のコレクションは、モネやゴーガン、ゴッホからロダンの彫刻、近代イギリス絵画、中世の板絵、タペストリーまで多様な時代・地域・ジャンルからなり、日本のために買い戻した浮世絵約8000点も加えれば1万点に及ぶ規模でした。
しかし1927年、昭和金融恐慌のあおりで造船所は経営破綻に陥り、コレクションは流転の運命をたどります。日本に到着していた作品群は売り立てられ、ヨーロッパに残されていた作品も一部はロンドンの倉庫火災で焼失、さらに他の一部は第二次世界大戦末期のパリでフランス政府に接収されました。戦後、フランスから日本へ寄贈返還された375点とともに、1959年、国立西洋美術館が誕生したとき、ようやく松方コレクションは安住の地を見出したのです。
開館60周年を記念した本展では、時代の荒波に翻弄され続けた松方コレクションの百年に及ぶ航海の軌跡をたどります』


フランスから最終的に寄贈返還される条件として美術館の建設があり、それで生まれたのが国立西洋美術館だった。つまり松方コレクションを展示するために建てられたのが何度も通っているこの美術館だと知り、その大きすぎる価値に深く感じ入りました。


更に松方氏には「日本の画家たちが本物の西洋美術を日本で観ることによって素晴らしい創作をしてほしい」との願いがあり、共楽(きょうらく)、共に楽しむという名の美術館を作ることが彼の生涯の夢だった。

造船業の栄枯盛衰によりその夢は叶わなかったが、結果彼の業績により国立西洋美術館は生まれることになったのです。


改めて、現代を生きる私たちの幸せは、このエネルギー溢れる生きざまのおかげであることを強く感じる。

愛情を後人への価値を願う気持ちへと向け、溢れる情熱を放ちながら人生を突き進む。

その素晴らしい生涯が、人としての誠の生き方を伝えてくれる。


美術鑑賞を超えた深き感動が、僕の心に充満したのでした。


休日

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2019年08月22日

塩梅という表現


八丁味噌の味噌カツカレー(レトルト)を食べる。


一口目、かなり美味しく感じました。八丁味噌大好きですし。

三口目くらいで「濃いなあ」という印象。

で、半分くらい食べたら飽きてしまいました。美味しいのは美味しいので、嫌々食べたわけではないのですが。


「もう一回食べたい?」と聞かれたら、「もう少しさらりと薄め(?)だと好みだけどなあ」と、答えになってない返事をしそうです。


八丁味噌だから甘辛いのですが、甘味も辛味も強過ぎると感じたよう。ただ薄くすると物足りなくなるテイストなのかもと、八丁味噌のいい感じもあれこれ妄想しました。


塩梅の話ですね。


僕は家人が作ってくれる料理に慣れてるだけでなく、ドンピシャ気に入っているので、外食は基本濃いめで辛めに感じます。

それでも最後まで飽きずに食べられる味付けあれば、場合によっては三口目くらいで一気に飽きるのもある。

最初の印象が良いけど飽きてしまうものは、おそらく旨味だけでなく刺激も盛り込んでいるのでしょう。瞬発的印象があり、三口目くらいまで興奮が続き、急激に慣れる(麻痺する?)印象。

不味いものの話じゃありません。美味しいんだけどの話。

その点美味しさが最後の一口まで持続、なんならもっと食べたいとなるのは、選択とバランスが良く、その味付けによりやはり素材や出汁、調味料の旨味が前面に感じられるものかと。刺激はその向こうにいらっしゃる。

スパイスの魔力、カレーやアジアンはまた別だが、やはり塩梅の設定が瞬発にあるのか継続にあるのかでしょう。

なんなら赤ワインのように、クレッシェンドするような塩梅を目指す料理人もいるかもしれません。



全てどんな演奏をしたいのかと合致すると思います。指揮者や演奏家のやりたい表現。出したい音色なんかも、それによる傾向がある気もします。


塩梅ってときの生き方、その表現ですね。


ソノーレ

posted by take at 19:03| 活動報告