2019年04月20日

ファンタジー


時が流れれば状況が変わり、社会の空気が求めるものも変わったりする。場合によっては、今までと逆の流れになることも。温故知新的に昔に戻ったりもする。

その転換期というのは必ずあったりするが、いち早くそれを感じ、新時代に要求される価値観へと転じられることは大事だと思います。



プロもアマチュアも、楽譜に書いてあることを正確に再現する能力は、かつてより格段に上がってきた気がします。楽器を操る技術ですね。

昭和の時代まで遡ると、音程が合わず、リズムも揃ってない、なんなら楽譜の音が並ばないということは多々あった。そのことにより、曲の姿も「まあまあなフォルム」としてしか再現できていない演奏が溢れていた。

それが機能的という言い方であれ、並び、調和し、揃うことで、その曲本来の姿が見えてきて、その喜びでもって素晴らしい演奏だとの評価が得られてきた、この数十年の流れ。

プロのオーケストラも、個性的な表現より「普通にやる」指揮者を良しとする気風が強かった。

指揮者のバトンテクニックや練習のアイデア、流れは洗練され、オケマンの技術向上も相まって、現代では本来のスコアの響きや流れではないものをやることの方が困難だ。なんなら棒なしオーケストラだけで、それができたりもする。

デュトワはじめ、あまりに明晰にスコアを再現できることの素晴らしさを感じてきた平成30年間という感じだが、実はそれ故に「楽譜の通り症候群」というのが、蔓延してきたように思う。

もちろん作曲家への敬意含め極めて大事なことであることは変わらないが、しかし「楽譜に忠実がまず大事」から「それをトレーニングすることばかりにやっきになる」から「肝心なことを見失っていった」、そんな一面もある気がします。


何を見失ったのか……


それは「ファンタジー」に尽きます。


1900年代のいつ頃までかにいた、本物の巨匠指揮者たち。彼らにあった、楽譜を読んだ上から更に醸し出される偉大な自然や人間賛美、更に深い精神性や愛を余すことなく感じ表現しようとすること。


本来の音楽表現に必要なこれらを、楽譜再現技術信奉により見失っていった感は否めない。


そろそろ原点回帰のタイミングを迎えており、演奏家も指揮者も気づかなければならない。

「楽譜再現のために技術が必要、その上で表現」ではなく

「楽譜の記号たちではないところにあるファンタジー、それこそを探し求める」

そんな生き方を。


川越へ、N響定期、ジパング
そういう意味で「本当に素晴らしい指揮者は限られた数人しかいない」という意見は、納得できる。

posted by take at 13:20| 活動報告