2018年07月18日

楽譜とは


太古の昔

ギャートルズたちが自然と音を求め、工夫をし楽器をこしらえ彼らの音楽を奏で始めたころは、演奏は全て即興であり、再生をするという価値観は無くスタートしたと思われる。

ただその閃きが生む音楽の中に、本人も周りも、他のどれよりも特に気に入るものがあったはずで、そうすると再演への希望が派生し楽譜が必要になるという道筋だったのでしょう。


そこからは様々なアイテム、記号が使われたのだと思う。

現在私たちが使っている記号以前も、音符が菱形のようなもの、小節線のないもの、邦楽のようにまるで異なる記号、そもそも縦書きだったり…みたいなのは、容易に確認することができる。


ある時、現在にまで永きに渡り利用される、これからも未来永劫そうなるであろう記号が開発された。

そして絶対的賛同の下、疑問無く認められ続け、述べ多くの作曲家、演奏家がこの記号と共に生きている。


演奏により、様々な感情を音として発することから喜びを感じる。つまり音楽表現の根源は感情の表出であるが、僕はこの記号すら実は苦肉の策だと思っています。

人間としてのあまりに豊かな感情を表すには、余りに使っている数字が簡素だから。

本当に作曲家の心の機微の全てまでを正確に表現しようとしたら、ここは4,567音符の長さで、クレッシェンドは3,6拍めから4,81の段階でなされるべきで…くらい細かいものなはず、いやそれでも表しきれないだろう。

作曲家の気持ちと意図を正確に理解したかったら、ご本人を読んで6時間はその本心を露に説明していただかないと、その価値ある記号を生んだ価値ある感情は結局わからないのだと思います。

実は、楽譜だけで作曲家の意図が100パーセントわかるのなら、再現する全員が同じ演奏に行き着くはず。

結局記号がそこまで緻密ではなく、演奏家にアゴーギグなどを使いながらやり口を選択できる範囲の、ある意味大雑把な区切り分けを選んだ結果になっている。

これこそが、人間的な選択なのでしょう。


やはり人間は「正確緻密神経質」と「おおらかマックス」の中間を選び、そこにこそ「選択肢」と「最高のものに対する夢の派生」を要求することを選ぶ。

そんな記号だからこそ!まずは正確に計算しきり作曲家の気持ち、可能であろうその7割8割の理解を目指すべきである。


優れた演奏家は、皆もれなく、正確な計算こそをやり続けている。

なぜなら、何十年続けても、どんなに一線で認められても、何十回とやった曲でも、改めて計算し直さないと曖昧で説得力のない演奏になってしまうから。それが人間の能力の現実だから。

ただ改めて計算し直すと、かつてあんなに精査考察した感情の機微が、突然より深い新しい姿で現れたりする。

それが私たちが使っている記号の、大雑把ともいえる行間に潜んでいる魔法のような魅惑なのだろう。


N響練習、大塚へ
そして、永遠にやめられないものとなる。

posted by take at 11:08| 活動報告