2018年07月16日

素晴らしい師、さりげない師


「中国では、親が、子供の習い先を変える旅をしながら、本当に素晴らしい師を探したりする(していた)」

という話を聞いた。

変えられたお師匠さん、残念でしたね。

先生をやるほうとしては、少なからず背筋がゾッとする恐ろしい話です。

親が子供に素晴らしい教えになる出会いを望むのは当たり前。

子供の立場としては、自分で求めて旅してるというよりは、人生の成り行きでの出会い感が強いでしょうが、後々になって、人生の喜びを導いてくれたことに対する感謝に繋がるような出会いこそが必要なのは確かですね。

あれやこれや旅を続け、訳わかんなくなるのはどうかとは思います。しかし、本当に価値を感じられる唯一無二の出会いを求めての旅というのは、結果必要なことだと思います。



小さい子供だろうが若者だろうが、おっさんだろうがおねえちゃんだろうが、おじいちゃんだろうがおばあちゃんだろうが、その人生の時間に必要なことは、実は同じな気がしています。

充実した取り組み、だからこそ得られる心と身体の好調。

充実した時というのは、没頭できるアイテムが不可欠で、何かしらの生産性と気付きや成長をもたらせてくれるものこそに出会わなければならないでしょう。

若い頃はまだ我が能力や適正の自覚も未開拓で、不安もありますが可能性も幅広く、あらゆる出会いには導かれる感があります。

年齢を重ねたあたりでの新たな充実、定年を迎えたりするとそうでしょうが、自分のやれることやれないことはかなり自覚もあり、そういう意味での不安はあるけど、逆にとにかく何すればいいのか全くわからないというものでもなくなるのでしょう。

没頭できるかどうかは、これはもう運であり運命であり。

ただ若い頃と違って、導かれるのを期待してるだけでは難しく、自分から積極的に探し試し携わっていかなければならない。


そんな時もどんな時も、いろんな方向からの知識や考察が、自分の携わるアイテムを深く見つめることによる没頭に繋がることは確かなので、やはりそんな出会いを求める旅は、どの世代にも必要かと。


無尽蔵に拡げてあれやこれやは必要ないでしょうが、おっさんになったからこそ、新しい方角、新しい面、新しい拡がりの話と出会いたい。


旅の途中、そんなさりげないい師にこそ出会いたいものです。


ブロカート金管分奏

posted by take at 05:57| 活動報告