2018年07月21日

うるさい成分


「うるさく感じる音」というのは、どの楽器のプレイヤーにもあったりするのでしょう。

「にぎやかに聞こえる音」とも言えるが、日本語的には、まだこちらの方が迷惑かけてる感は薄い。

そう、うるさい音というのはかなりな迷惑行為なのだ。

それは、でかく吹いたらうるさいというような単純な表現で納まりきらないことでもある。とても大きな音なのに全くうるさくない、小さい音量なのになんだかうるさいというのがありうるから。pはうるさくないが、ある程度以上の音量になるとうるさくなるというパターンもあるだろう。

ただ、どんなに大きな音で吹いても全くうるさくないプレイヤーというのはいるわけで、やはり絶対的に目指すべきことのひとつでしょうね。


実は、私たちが正確に理解したいのは

「うるさく感じるのは、一体何がどうなっているのか」


僕が考えるに、まず硬さがそう聞こえ、そこに力みが加わっていることだと思います。

ただ力みというのは、成長していく過程では(たとえば素晴らしいfを手に入れていく時)必要な時もあり、全て脱力、全て開放的ベクトルのみを感じるのは、逆に限界のあるプレイヤーになる可能性もあるから気をつけたい。

その力みが音に存在し、硬さとして表現されているのが「うるさい成分」なのでしょう。

pであっても、これがあってしまうと「なんだかうるさい」

おっきな音になると「ホント勘弁してほしいうるささ」

になってしまう。


とにかく、自分の音から力みと硬さを排除するべく、日常から意識が目指す必要がある。

ただ重ね重ね勘違いしたくないのは、自分の音量の範囲内、丁寧という名の弱々しい取り組みからは、幅広い音量を網羅する「うるさいの取り除き」はできないということだ。


N響大阪公演

posted by take at 14:47| 活動報告

2018年07月20日

一生懸命らない


演奏とは、聞き手に「一生懸命吹いている」と思わせたらアウトである。

そこには、目指すべき安定感からの、不可欠な安心感が欠如しているから。

具体的には、力みや不均一、ミスや緊張感たっぷりのビジュアル等が存在しているのでしょう。


その中で、特に管楽器奏者が陥りがちなことがあります。細かい音符に顕著なのですが、


「全ての音符を一生懸命吹いている」


という印象になること。これは、数ある一生懸命の中でも特によろしくない結果。音楽的な表現こそを目指すため、是が非でも避けたいことなのです。


特に金管奏者なんかは「外れない」からの「つぶが揃う」からの「全てが均一ににクリアーに聞こえる」を目指しがち。

トロンボーン奏者になると、更に「タンギングとスライドの合致」ということに強い意識が生まれ、気がついたら「全部の音を一生懸命吹いている」という結果に。

たとえ外すことなくミスもなく、リズム音程バッチリであっても、一生懸命感に繋がるなら、必要以上な強い舌や力みがあるということになっているのでしょう。


それが高いクオリティに感じても、実は音楽的には陳腐な結果になっている。

楽譜上の音符たちは決して平等ではないと意識することは、とても大切なこと。

そうやって初めて権力の縮図の理解という難題、理想的音楽像への難問の扉を開くことになる。一生懸命音符を並べているうちは、まだまだ幼稚な取り組みとなる。

そうやって主役と脇役、足軽から殿様、一般市民から真の権力者までが登場し、大人の音楽世界になるのですから。


N響練習、川越へ
そういえば、アリの世界も大半は働きアリでも必ず女王はいるし、誰かが過労死したら、必ず働かなくなるのが自然と登場するんでしたね。

posted by take at 10:56| 活動報告

2018年07月19日

70歳から見える


以前、年輩の演奏家の方々と話していた時

「ソロのコンクール受けてみたい」

なんて話題で盛り上がったことあります。

応募資格は60歳以上、課題曲は難しいのは嫌だからモーツァルトでいい(!)、賞金よりも、温泉旅行がいい、順位により同行してくれる人が……なんて、ここには書けないような色っぽい条件まで、じーさんよろしくやたらと盛り上がったのでした。



そんなん思い出すこんなんが…

『ご存知ですか?〜応募条件はただ一つ「70歳以上であること」 https://bit.ly/2LrKLwl

★松本市美術館では《第8回老いるほど若くなる》70歳以上の方の絵画作品募集中!

◎テーマは自由で、公募展未発表の平面作品。応募期間=平成30年11月1日(木)〜12月15日(木)まで。☆彡ぜひチャレンジしてみませんか♪(-^〇^-)〜

※70歳以上の方の絵画作品を募集!
 《第8回 老いるほど若くなる》

 http://matsumoto-artmuse.jp/exhibition/competition/

;応募期間
 平成30年11月1日(木)〜12月15日(土)

;応募資格(国籍・職業不問)70歳以上の方
 ※平成31年1月31日現在の年齢。
  昭和24年1月31日生まれまで)

 松本市美術館
  〒390-0811 長野県松本市中央4-2-22』


トトロ含め小さい子どもにしか見えないものはあるようだ。青年になり中年になり見えなくなるものは確かにあり、ただ現実はよく見え、見えているものもより判断できるようになり。

そして70を過ぎたら初めて見え始めるものがあるのでしょう。

企画は、生物学を粉砕する若返りという逆行を唱うが、ただの若年化には収まらない新しい対象物、新しい色彩が生まれるのかもしれない。


まだまだ若造な我が家の画家には応募資格はない。

彼女にはまだそれが見えないからだからだが、決して早く年老いたいわけではないが、随分夢見を煽る素敵な企画ではあるのです。


N響練習、川越へ
そこにはトトロが描かれているかも…

posted by take at 11:41| 活動報告

2018年07月18日

楽譜とは


太古の昔

ギャートルズたちが自然と音を求め、工夫をし楽器をこしらえ彼らの音楽を奏で始めたころは、演奏は全て即興であり、再生をするという価値観は無くスタートしたと思われる。

ただその閃きが生む音楽の中に、本人も周りも、他のどれよりも特に気に入るものがあったはずで、そうすると再演への希望が派生し楽譜が必要になるという道筋だったのでしょう。


そこからは様々なアイテム、記号が使われたのだと思う。

現在私たちが使っている記号以前も、音符が菱形のようなもの、小節線のないもの、邦楽のようにまるで異なる記号、そもそも縦書きだったり…みたいなのは、容易に確認することができる。


ある時、現在にまで永きに渡り利用される、これからも未来永劫そうなるであろう記号が開発された。

そして絶対的賛同の下、疑問無く認められ続け、述べ多くの作曲家、演奏家がこの記号と共に生きている。


演奏により、様々な感情を音として発することから喜びを感じる。つまり音楽表現の根源は感情の表出であるが、僕はこの記号すら実は苦肉の策だと思っています。

人間としてのあまりに豊かな感情を表すには、余りに使っている数字が簡素だから。

本当に作曲家の心の機微の全てまでを正確に表現しようとしたら、ここは4,567音符の長さで、クレッシェンドは3,6拍めから4,81の段階でなされるべきで…くらい細かいものなはず、いやそれでも表しきれないだろう。

作曲家の気持ちと意図を正確に理解したかったら、ご本人を読んで6時間はその本心を露に説明していただかないと、その価値ある記号を生んだ価値ある感情は結局わからないのだと思います。

実は、楽譜だけで作曲家の意図が100パーセントわかるのなら、再現する全員が同じ演奏に行き着くはず。

結局記号がそこまで緻密ではなく、演奏家にアゴーギグなどを使いながらやり口を選択できる範囲の、ある意味大雑把な区切り分けを選んだ結果になっている。

これこそが、人間的な選択なのでしょう。


やはり人間は「正確緻密神経質」と「おおらかマックス」の中間を選び、そこにこそ「選択肢」と「最高のものに対する夢の派生」を要求することを選ぶ。

そんな記号だからこそ!まずは正確に計算しきり作曲家の気持ち、可能であろうその7割8割の理解を目指すべきである。


優れた演奏家は、皆もれなく、正確な計算こそをやり続けている。

なぜなら、何十年続けても、どんなに一線で認められても、何十回とやった曲でも、改めて計算し直さないと曖昧で説得力のない演奏になってしまうから。それが人間の能力の現実だから。

ただ改めて計算し直すと、かつてあんなに精査考察した感情の機微が、突然より深い新しい姿で現れたりする。

それが私たちが使っている記号の、大雑把ともいえる行間に潜んでいる魔法のような魅惑なのだろう。


N響練習、大塚へ
そして、永遠にやめられないものとなる。

posted by take at 11:08| 活動報告

2018年07月17日

計算


楽譜とは数式である。

出会った時からそうで疑問を持たない人がほとんどだと思うが、そもそも音楽という数学や算数とは遠い世界のイメージになるアイテム、その「導き用紙」にはなぜだか数字が書いてある。

拍子として4/4や6/8といった数字が、3連符に至っては音符の上に3と書いてある。

そう、数字が直接書いてあるのだ。

実は数式である。


『リズムというタイミング』
四分音符を2倍で二分音符、4倍で全音符つまりかけ算。2つを連桁で繋げたら八分音符という2等分、3つにし上に3と書けば3等分、4つを連桁2つで繋げれば4等分。つまりわり算。タイは足し算、短い休符は引き算。


『長さ』
たとえば、全音符が書かれてある1小節が4センチの幅だとする。正確な全音符の長さを演奏しようとした場合、本当に4センチで吹けているのか、3,8センチになってないか、4,2 センチになってないか、正確に査定するという計算をしなければならない。


『音量』
4拍かけでpからfにクレッシェンドする場合、途中の2拍目、3拍目は音量の目盛りをいくつに設定するか、計算しなければならない。


『アナリーゼ』
曲全体の盛り上がりの頂点、山の頂上が理解出来た場合、そこへ向かってどのように盛り上げていくか、どのようにフレーズをスタートするか。そのフレーズ全体をそう仕立てるなら、その前のフレーズは曲全体の頂点を超えるような表現はすべきではないから、どの程度にとどめておくか。なら曲の最初は、どれくらいでスタートするか。全て計算。


そう、演奏行為というのは全て「計算をする」ということ。

算数や数学を学んだり、割り勘の計算をすることを悪く思う人はいないはず。しかしこと人間同士のコミュニケーションとなると「計算する」というのはネガティブなイメージになる。

素敵な人間性を備えた人が自然に振る舞うことは歓迎されるが、計算しながらつきあってるとなると、周りは利用されてる感になり、決して良いイメージにはならない。


もしかしたら音楽に対しても、そう思う人は多いかもしれない。

「計算なんて言い方はやめてくださいよ。音楽はもっと感情のもの。心の喜びのもので、そんな数字とか、割りきれるようなもんじゃないでしょ」


いえ、計算です。実は、きっちりかっちり計算しなければならない。

優れた演奏家、楽器の名手はもれなく、正確なる計算こそをずっと繰り返している。


ではそれができてない人は何をやっているのか。

「あ、知ってます。八分音符ですよね。四分の半分だから、こんな感じですよね」

と、ほとんど「感じ」の取り組みに終始している。

その「感じ」が、本人の音楽に対するざっくりとしたイメージからの取り組みに繋がるが、出来上がる結果は決して満足いくものではなく、どちらかといえば「正体不明」なものとして聞こえ、首をかしげ続けることになる。


楽譜とは数式であり、音楽の演奏には、超正確な計算をするということが不可欠である。


では、なぜ楽譜が数式になっているのか。

これについては、また明日考えたいと思います。


川越へ

posted by take at 15:35| 活動報告