2018年07月26日

ホールにしか存在しない


とある友人。アマチュアオーボエ奏者ですが、とても熱心な方。なんとN響の定期、A,B,C全ての会員になって、コンサートを楽しんでくれている。

楽器の上達も目覚ましく、今の彼の人生の時間というのは、オーボエを吹き音楽を感じることが生き甲斐になっているのだろうし、その喜びのために働き、日夜音楽のことばかり考えたりするのだろうと容易に想像ができる。


そんな彼の言った言葉が、とても印象に残る。


「N響の会員になって一年近く続けて聴いて思ったんですが、CDで聴いてるだけでは絶対理解できないことが、生演奏からわかる瞬間がありました」


そうなんでしょうね。

録音クオリティの進化と、日常での身近なる並走化の進歩は本当に目まぐるしい。今や24時間どこにいたって何をやりながらでも、音楽を聴くことができる。

ただそうやって楽しんでも、コンサートホールの中にしか存在しないものがあり、本当に心から音楽を愛する人にとっては、それこそを目の当たりならぬ「耳の当たり」にすることこそが、我が愛情の深さの証なのだ。そんな叫びにも聞こえました。


川越へ

posted by take at 15:55| 活動報告

2018年07月25日

あらゆる角度からの企画


ラインレッスンのある一場面。

「先生のレッスンを読んで再度録音を聞くと、なるほどなというところがたくさんあります」

僕にとってはとても嬉しい言葉。これぞラインレッスンの真骨頂だろう。

同時に「投げ掛けがないと、自分の録音からウィークポイントを感じきれない」という現実も見えてくる。

家人に話すと

「そうそう、自分がデザインしたものの校正、ミスは自分が一番わからないもの」

「絵も何度も見直してもわからないのに、少し離れて写メった画像でみると、歪んでいるのがわかったりする」

と。現実3Dより、写メという2次元平坦を見たら見えてきたということか。

録音も投げ掛けも、いろんなアイテムと共にあらゆる角度からのものと相対した方が、より正確に見えるのだろう。


現実がそこにあっても見えてこないというのは、自分の脳が自分の作品に対して「こうなっている」と思い込んでいて、正確な客観視に必要な「パーフェクトフラット」が困難なことも現実だ。

他人が他人にしている投げ掛けも「そうそう、その通り」と、聞いてる自分は瞬時に素直に納得できるのに、いざ我が身がアドバイスする立場になると、同じことには気づけなかったり、より伝わりにくい表現しかできなかったりする。


「わかる」と「できる」の差だったり、「頭のどこかでその価値観はある」と「現実的にきちんと理解し目の当たりにできている」の差だったり、「漠然と、駄目だとわかってないわけではない」と「具体的に何がどう駄目かがきちんとわかっている」の差だったり。


これの差が埋められるために、同じものを見つめるにしても


「あらゆる角度からの企画」


の必要性を感じています。


帰京、吹奏楽指導


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2018年07月24日

うるさい成分 その2


N響のトランペット奏者たちと「うるさい成分って何か」について意見交換してみた。みんなでいろいろ考察し、やはり吹き始めの時間が大事だろうということは一致した。

とにかくストレスをかけない状態で音が出る、つまり大きな音で吹くのではなく、細やかな振動を目指すべく丁寧に吹き始め、力みの排除を目指さなければならないと。

そうやって「いい振動」が獲られるまでの時間についてだが、日によって唇の状態は違い反応の良し悪しも様々なので、何分やれば良いと決められるものではない。

理想の振動、息の流れを頭の中に描きながら、そうなれるまでは決して強く吹かないという、根気はいるけれど、そう転換すれば自分の音に対するモニター力、振動に対するモニター力もグッと上がる取り組みになるはず。


この、うるささや全体の響きの魅力の乏しさ、硬さ、ゆくゆくは技術に対する影響まで、実は


「吹き過ぎ」


というのが原因になっていると知っていたい。これは時間の話ではなく、強過ぎ、力み過ぎというアプローチの話。


ジョー・アレッシもアジアにおけるキャンプにて「皆吹き過ぎだ」と熱く指導していたようだが、僕も長年そう感じている。

結局、大きな音ではなく強い音になっている。それが「うるさい」の要因である。


僕自身が長らくそうだった。

若い頃、欧米の素晴らしいオーケストラやソロの演奏を客席で体験した時、ホールを包み込むような響きや、スピード感溢れて飛んでくるそのサウンドの魅力に、幾度となく痺れていた。

それを手に入れる練習において、力業にしかイメージがたどり着かず、吹き過ぎるというアプローチばかりしていた。そんなうちは結局「うるさく鳴る」ばかりで「美しく豊かに響き渡る」ことにはならなかった。


取り組みの理想、それは常に段階と共に考えるべき。

常に小さく吹く、何分小さく吹くではなく、うるさくなくなるという理想を描き、そこを目指して吹き始める時間帯にいかに自分をコントロールできるかという能力こそ不可欠。


そんな時間帯、とにかく『吹き過ぎ注意!!』ということだけは確かだ。


そうやって唇や頭がスムーズになったあかつきには、きちんと大きな音のトレーニングはやるべき。小さい方にだけに片寄らず。

そんなフォルテにも、スムーズな息の流れからのうるささの排除がなされていれば、実はそんなに吹かなくても結果巨大な響きになっていて、ホールを包むサウンドが実現できているはず。

そこには、ギャーギャー騒ぐ安っぽさはなく、巨大な威厳、神の説得力のような世界があるはずなのです。

人間は最後は演奏に、庶民ではなく神こそを見たいのだ。

なぜなら、演奏を与えられる私たち聴衆こそが、日夜うるさく騒ぐ庶民であり、そのみっともなさは充分にわかっているのだから。


N響下関公演

posted by take at 10:18| 活動報告

2018年07月23日

下関の小さな幸せ


N響旅中。昨日が松山で今日は移動日、下関へと向かいます。

高速艇で一時間ちょっとで広島の港へ。そこから路面電車で広島駅を目指すのですが、一緒に動いていた仲間が「広島で流行りの汁なし担々麺を食べよう」と言うので、途中で降りて徒歩で店に向かう。

楽器とキャリーをもって酷暑の広島の町を20分ほど歩きます。汗だく。でもなんだか気持ちよく元気。

で、汁なし担々麺を食べて汗だく。でもなんだか気持ちよく元気。

広島泊まりの仲間と別れ、一人で新幹線に。新下関で在来線に乗り換え下関へ到着。

ホテルの部屋で少し休み、カラオケシダックスへ練習に行く。実はカラオケボックスプラクティスは人生二度目。延長までして二時間みっちりさらって、下関の町へ出るとさすがに暗くなってます。くたくただが、でもなんだか気持ちよくメンタルは元気。

ビールとラーメンでもやって帰ろうかとラーメン屋の前で悩むが、今日のホテルは天然温泉がついているのを思い出し、コンビニへと旅程変更。

たまにはと、カップ麺とメンマやつけもんなどのつまみ、ビールにハイボールを買い込みホテルへ戻る。

様々冷蔵庫へしまい、お湯を沸かし、準備万端で屋上の温泉へ。

今日一日の汗だくを全て洗い流すだけで、えもいわれぬ幸せが。露天の屋外は少しだけ涼しく、ほどよい風がまた幸せを増長。

ゆったり温泉に浸かり疲れも流しきり、部屋へ。沸いたお湯でカップ麺を作り、ビールとつまみ。


特になんてことなさげな旅の一日ですが、船やり町歩きやり、しっかり練習やり、温泉で汗流しきり、最期に独りで気ままにビールとささやかな食事。


なんだかちゃんと、やるべきこと含め旅の一日をやりきった気がして、たまには独りでこんなのもいいなあと、気持ちよくベットにすい込まれたのでした。


移動日

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2018年07月22日

人にすりこまれる表情


イケメン俳優の顔を思いだそうとしたら、破顔一笑、ほころんだ笑顔が浮かんだ。

アクションも得意な人気俳優。シリアスな顔、怒ったような表情、憂いの表現も得意なのでキリリとすました表情がでてきても良さそうだが、とにかく見てるこちらも嬉しくなるようなニッコリ笑顔が浮かんだのです。

別のイケメンを浮かべると、こちらは少し機嫌が悪いのかとすら思わされるような、シャープな睨み顔がでてきた。

こちらの人も、もちろん笑顔含め様々な表情で演技をしているが、なにせかっこよさを売りにしている「イケてるmen」というカテゴリーにいるわけで、そんなのがでてくるのが自然なのかもしれない。


じゃあ前述の人は?


その人の笑顔がとにかく素敵だというのは大きい。超かっこいいイケメンなのに、クシャッと崩れた表情は決して恥ずかしいものではなく、内面の素直さ、豊かな人柄が全面に醸し出され、見ているこちらに安心感と好意を抱かせる。


特に目。


ふと、いろんな知り合いを思い出してみた。

知り合いであればあるほどいろんな表情はリアルに浮かぶが、だが一番目に出てくる顔が笑顔とは限らない。

実は不機嫌そうな顔が出てくる人もいる。


人が持つ印象は大変に素直であり、かつ正確だ。この第一に浮かぶ表情こそ、その人の生き方の根っこを占めていたりするのだろう。

僕は、一体どんな表情で思い出してもらえるのだろうか?


N響松山公演

posted by take at 09:04| 活動報告